<藤原氏>北家 閑院流

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正親町三条公氏 正親町三条公貫
 三条大納言と号す。三条のほか、嵯峨および西郊とも称す。正親町三条家の祖。なお、明治維新後に正親町三条家は本家の三条家と区別するために家名を「嵯峨」と改称したが、これは公氏の別号に由来している。 

 暦仁元年(1238年)、誕生。しかし、ほどなく父が参議のまま薨去したため左大臣・洞院実雄の猶子となった。延応元年(1239年)従五位下に叙爵。昇進を続け、建治元年(1275年)参議に任ぜられて公卿に列した。
 建治2年(1276年)になると、従三位・土佐権守となる。建治3年(1277年)には正三位に昇叙。弘安4年(1281年)讃岐権守を兼ね、弘安7年(1284年)に従二位に叙せられる。弘安9年(1286年)には父の極官である参議を超過して権中納言に任ぜられた。しかし、弘安10年(1287年)に権中納言を辞退して翌年に正二位に叙せられた。
 正応5年(1292年)に日野資宣が薨去するとその後任として民部卿に任ぜられた。永仁3年(1295年)これを辞退して再び散位となるが、正安元年12月(1300年1月)に後伏見天皇元服後宴の上寿役を務めて権大納言に昇進した。正安2年(1301年)権大納言を辞任して、嘉元元年(1303年)9月に出家。法名は空圓という。正和4年(1313年)2月29日に78歳という高齢で薨去した。正親町三条家を継いだ3男・実躬の日記『実躬卿記』には父・公貫のこともよく記されている。 

正親町三条実継 正親町三条公豊
 後八条と号す。姉・秀子が持明院統の外戚となったことから父・公秀は内大臣に任ぜられた。実継は内大臣在任期間も長く、内大臣在任時には弟・実音と息男・公豊が権大納言に在任している。さらに、実継は内大臣を辞してから正親町三条家の出身では初めて従一位に叙せられた。これらのことから、実継の代に内大臣に昇進できる家格が確立されたと考えられる。持明院統に一貫して忠節を尽くしてきたことに対して任内大臣、兄弟そろっての従一位叙位という処遇がなされたと見ることができる。 

 号は後三条。後三条内大臣、称名院入道などと呼ばれた。初名は公景。元弘4年(1334年)従五位下に叙位。建武4年/延元2年12月(1338年1月)従五位上に昇叙し、康永4年/興国6年(1345年)侍従任官。
 貞和3年/正平2年(1347年)右近衛少将に任じられ、貞和4年/正平3年12月(1349年)に従四位上に叙される。下野権介、右中将を歴任し、文和2-3年/正平8~9年頃(1353~54年)に正四位下・美濃介に叙任。文和4年/正平10年(1355年)参議に任じられ公卿に列す。
 文和5年/正平11年(1356年)従三位・備前権守に叙任。延文6年/正平16年(1361年)権中納言に任じられる。康安2年/正平17年(1362年)正三位、貞治3年/正平19年(1364年)従二位に陞叙。2年後には権大納言になり、応安3年/正平25年(1370年)正二位。その後はしばらく出仕を止めていたが、南北朝統一後の応永2年(1395年)9月に廟堂に復して内大臣に任じられる。その2ヶ月後に出家、法名を皎空とした。応永13年(1406年)6月に薨去、享年74。