| F561:正親町三条公氏 | 藤原公季 ― 藤原公実 ― 三条実行 ― 正親町三条公氏 ― 浅井重政 | F562:浅井重政 |


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| 浅井重政 | 浅井亮政 |
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浅井氏の出自には、よく知られた二つの俗説がある。 |
浅井氏の庶流・蔵人家直種の子に生まれた。幼年期は定かではないが、浅井氏嫡流で従兄弟である浅井直政の娘・蔵屋と結婚し、嫡流を継承している。この頃、浅井氏は北近江半国の守護・京極氏の被官であった。 |
| 田屋明政 | 浅井政高 |
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田屋氏は浅井氏庶家で、北近江・高島郷を支配する土豪であった。浅井氏当主・亮政の嫡子・新四郎政弘には嗣子がいないまま早世したため、嫡女・浅井鶴千代の婿として、亮政の養子となった。この時「浅井新三郎明政」と名を改めている。 |
通称は田尾茂左衛門。妻は田屋明政の娘・海津局。子は江戸幕府旗本三好家祖の三好直政。明政の婿養子(実父の名は不詳)となり、初めは生田姓、後に田尾姓を経て浅井姓と称する。豊臣氏に仕え、大坂の陣に参戦し大坂城落城後に自害した。享年56。 |
| 海津局 | 饗庭局 |
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豊臣秀吉・秀頼父子に臣従した夫・浅井政高と共に大坂に赴き、淀殿に仕えた。大坂の役で夫は戦死するが、海津局は秀頼夫人・千姫に従って城外に逃れ、江戸に下って淀殿の妹・崇源院及び千姫に仕えた。淀殿が海津局を逃がしたのは、浅井家存続のための手段であったとも思われる。また、この件で俗に言われている淀殿が千姫の脱出を拒んでいたという説は誤りであったことが分かる重要な人物である。明暦2年(1656年)12月20日に死去した。 |
母は浅井亮政の唯一の嫡女・浅井鶴千代。息子は木村重成の番頭・内藤長秋。 |
| 浅井政貞 | 浅井久政 |
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尾張苅安賀城主。尾張浅井氏当主・浅井高政(新三郎)の子と伝わる。尾張浅井氏は近江国の浅井氏の庶流ともいわれるが、近江浅井氏がまもなく有名になったために系譜を仮冒されたものであるとも考えられる。諱は、子孫から江戸幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によれば、某氏とされ、政貞あるいは政澄に作るとある。賢政,政高,信広などもあるが、文書が確認できるのは信広である。 |
天文11年(1542年)に父・亮政が没したため跡を継いだが、武勇に優れた父とは対照的に武勇に冴えなかった。亮政は正室との間に生まれた海津殿(久政の異母姉)の婿として、田屋明政に家督を譲ることを望んでいたともいわれるが、亮政と側室との間に生まれた久政が家督を継ぐこととなった。そのため、義兄・明政は久政の家督相続を承服せず、反乱をおこすなど久政の家督相続は家中に少なからぬ禍根を残す結果となった。 |
| 浅井長政 | 浅井万福丸 |
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天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江の観音寺城下で生まれる。当時、浅井氏は六角氏に臣従し、長政自身も生母・小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。 |
『翁草』によれば、長政には2男3女があるが、万福丸は『信長公記』に基づく市の入嫁以前の出生で、長政は六角氏重臣・平井定武の娘との婚約を行っているほか側室の存在も確認されるため、万福丸と次男・万寿丸は於市の出子でなく継母となった於市の養子となった説もあるが、於市の入嫁時期を永禄4年(1561年)とする見解を示す説があり、於市の出子や三姉妹との双子である可能性を示している。 |
| 浅井万寿丸 | 浅井茶々(淀殿) |
| 『翁草』『 浅井三代記』によると、浅井長政の滅亡の天正元年(1573年)5月に生まれ、中島左近,小川伝十郎が保護し近江国長沢村の福田寺の弟子となり、慶安となったとする。天正元年に産まれということはお江とは同い年なので庶子である。『浅井氏家譜大成』では「虎千代丸長明」とされるが、『寛政重脩諸家譜』では「万寿丸長秀」で、仏門に入り正芸と号し、院号は伝法院。近江国坂田郡長沢村の福田寺の住職となったとある。この正芸はのちに還俗して、直政と名乗り、豊後に移住したとする別説もある。 |
近江国小谷に生まれる。天正元年(1573年)、小谷城落城の際、母・於市ら三姉妹は藤掛永勝に救出され、その後は伯父の織田信包のもとにおかれ、安濃津城または清洲城で保護されていたという。 |
| 浅井 初 | 浅井 江 |
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天正元年(1573年)、小谷城落城の際、母・於市ら三姉妹は藤掛永勝に救出され、以後、織田家の下で保護を受ける。 |
天正元年9月1日(1573年9月26日)、小谷城落城の際、母・於市ら三姉妹は藤掛永勝に救出され、以後、織田家の岐阜城に留まり、伊勢上野城主で信長の弟の織田信包に預けられたという。 |
| 浅井井頼 | 浅井くす |
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讃岐丸亀藩客分。浅井長政の庶子で通称は喜八郎、周防守。諱は複数伝わり、政信,政賢,政堅,長春,政資,長房など。晩年は作庵と号した。 |
若狭国三方郡早瀬浦の生まれとされる。『三方郡誌』には「或は云ふ、侍女は浅井長政の女なりと。又云ふ、秀吉の妾壽芳院(松の丸殿)の乳母なりと。」の記述が残る。くすの幼少時の記録は残らないが、松の丸殿に仕えたところを見ると、浅井宗家滅亡後は伯母である養福院の縁で引き取られたのではないかと考えられる。 |
| 刑部卿局 | 阿久姫 |
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元亀元年(1570年)に浅井長政の娘として誕生する。慶長2年(1597年)、徳川秀忠の正室で異母妹の江(崇源院)が妊娠した際、乳母となる。当時江の侍女だった民部卿局と共に上臈として仕えていた。 |
久政の長女であるが、庶子のため祖父・浅井亮政の養女となる。母とともに実宰院(当時は実西庵)に移り住み、母の死後に庵主となった。 |
| 浅井マリア | 大文字屋治政 |
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名は不明で、戒名から福,慶と想定されることが多い。なお、当時は夫婦別姓なので、本来は京極姓で呼ぶのは適切ではないが、明智珠の細川ガラシャ,沼田麝香の細川マリア,黒田妙の高山ジュスタなどの例があり、否定はできない。 |
浅井久政の子で、元の名前を浅井治政という。天正元年(1573年)に小谷城で兄の長政が滅ぼされたのち、越前国の宝円寺(越前市高瀬町)に隠れていたのを知った前田利家は、小袖や金子を与え、越前国府中(越前市武生)の商家・大文字屋茂左衛門の養子にして保護したとされる。 |
| 浅井吉政 | 浅井惟安 |
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浅井氏庶家・浅井亮親の子。天正元年(1573年)に宗家であり主君の浅井長政は、織田氏に本拠の小谷城を攻められて滅亡する。その際に父・亮親も処刑されている。吉政は叔父の浅井盛政(亮親の従兄弟)とともに難を逃れ、盛政の養子となった。間もなく盛政とともに藤堂高虎に仕え、高虎の甥の賢政を養子に迎えた。しかし、藤堂一族の専横独占に不満を持ち、賢政との養子縁組を解消し、養父とともに出奔し羽柴秀吉に仕えた。 |
浅井氏の一族であり浅井清政の子といわれるが定かではない。当主・浅井久政の近侍を務める。久政の隠居後もこれに従った。小谷城の福寿丸に居を置き、その名がそのまま丸名へとつながった。小谷城落城時は、京極丸を守った後に小丸にて久政自害に付き従い、介錯を務めた後、自害。子孫は美濃国に落ちのびたと伝わる。 |
| 浅井亮親 | 浅井直種 |
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浅井氏の庶家にあたる。元亀元年(1570年)、織田氏による朝倉氏侵攻をめぐり宗家・浅井長政が父の浅井久政や重臣達の意見に押されて織田信長を裏切ろうとした際は、これに反対し諌めた。しかし、長政は離反の道を選び、浅井氏は信長と敵対関係となる。 |
京極氏の家臣で浅井氏の庶流に当たる。子に政種,亮政,井演。浅井政信も直種の子という説がある。浅井忠政の弟で、浅井直政の叔父と伝わる。甥で宗家の浅井直政に男子がいなかったため、子の勝政(後の亮政)を養子として出した。 |
| 浅井井規 | |
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浅井氏の家臣。浅井長政の子の井頼の実父ともいわれる。 |