<藤原氏>北家 閑院流

F561:正親町三条公氏  藤原公季 ― 藤原公実 ― 三条実行 ― 正親町三条公氏 ― 浅井重政 F562:浅井重政


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浅井重政 浅井亮政

 浅井氏の出自には、よく知られた二つの俗説がある。
 第一には三条公綱落胤説であるが、これは『浅井三代記』によれば、嘉吉年中に三条大納言公綱が勅勘を蒙って左遷され、近江守護の佐々木京極持清に預けられて、三条家の知行地として近江浅井郡丁野村を与えられてそこに住んだが、そこで一子もうけたのが浅井氏の祖の浅井重政とするもの。ただし、三条家の近江の知行地は坂田郡加田村と別地であり、三条公綱の没年が記録と合わず、勅勘を蒙って左遷されたという事実も見当たらず、『浅井三代記』と『浅井系図』による創作と考えられる。
 第二には物部守屋後裔説である。『史料集覧』によれば、守屋大臣の後裔・俊忠の子・式部大輔藤原忠次、初めて武家となり、浅井郡の五ヶ所村を知行して、俊政より27代後が浅井亮政とするものであるが、物部姓と藤原姓が混濁するなど明らかな問題がある。
 この他、『寛永諸家系図伝』では、近江の在地郡司である公家の庶子が入り婿したという大江氏支流説を載せている。 

 浅井氏の庶流・蔵人家直種の子に生まれた。幼年期は定かではないが、浅井氏嫡流で従兄弟である浅井直政の娘・蔵屋と結婚し、嫡流を継承している。この頃、浅井氏は北近江半国の守護・京極氏の被官であった。
 京極氏高清は家督を次男・高吉に譲る意向を示したことで、お家騒動が発生した。この時、亮政は近江国衆・浅見貞則とともに、高清の長男・高延を後継者に推し、高清と対立している。貞則と亮政は主君高清,高吉、そして高吉を推す上坂信光を尾張に追っている。これ以後、京極氏は国人一揆が主導することになり、亮政はその中心的役割を担ったが、高清を追う際に共に戦った浅見貞則が専横を極めたため、亮政は今度は貞則を追い、国人一揆の盟主となり、京極家中における実権を掌握した。
 こうして江北における勢力を築いた亮政であったが、亮政の勢力拡大と共に南近江の守護六角定頼と対立するようになる。六角氏はもともと近江源氏佐々木氏の嫡流であり、京極氏の本家筋にあたる存在で、この時期は足利将軍を庇護して室町幕府へ関与するなど、勢力を強めていた。もともと近江守護職であった六角氏との対立は、亮政にとって不利であり、度々侵攻を許すことになったが、配下となった国人層を掌握してこうした侵攻をかろうじて凌いでいる。
 一方、亮政が傀儡化した京極氏は、こうした亮政の専横に不満を募らせた京極高延が父・高清と和解し、上坂氏をはじめとする反亮政派の国人衆らとともに亮政と対立するようになった。亮政は六角氏との対立もある中、更に京極氏と争う余力はなく、天文3年(1534年)に京極父子と和解している。しかし、天文10年(1541年)、再び京極高延が亮政に反旗を翻した。既にこの時期、50歳になろうとしていた亮政は京極氏との対立を解決しないまま、翌天文11年(1542年)1月6日に死去した。死後、嫡男・久政と婿養子の田屋明政が家督継承を巡って争うようになり、明政が京極高延と結んで久政を攻めたため、久政は六角氏へ臣従している。

田屋明政 浅井政高

 田屋氏は浅井氏庶家で、北近江・高島郷を支配する土豪であった。浅井氏当主・亮政の嫡子・新四郎政弘には嗣子がいないまま早世したため、嫡女・浅井鶴千代の婿として、亮政の養子となった。この時「浅井新三郎明政」と名を改めている。
 だが、後に亮政は庶長子の久政(海津殿の異母弟)を自身の後継者と定め、明政は姓を「田屋」に戻して、身を引いたという。養父・亮政の死後、京極氏と手を組み、後継者の義弟の久政と争ったという説と、家督の移譲が滞りなく行われたため、争いがなかったとされる説がある。 

 通称は田尾茂左衛門。妻は田屋明政の娘・海津局。子は江戸幕府旗本三好家祖の三好直政。明政の婿養子(実父の名は不詳)となり、初めは生田姓、後に田尾姓を経て浅井姓と称する。豊臣氏に仕え、大坂の陣に参戦し大坂城落城後に自害した。享年56。


海津局 饗庭局

 豊臣秀吉・秀頼父子に臣従した夫・浅井政高と共に大坂に赴き、淀殿に仕えた。大坂の役で夫は戦死するが、海津局は秀頼夫人・千姫に従って城外に逃れ、江戸に下って淀殿の妹・崇源院及び千姫に仕えた。淀殿が海津局を逃がしたのは、浅井家存続のための手段であったとも思われる。また、この件で俗に言われている淀殿が千姫の脱出を拒んでいたという説は誤りであったことが分かる重要な人物である。明暦2年(1656年)12月20日に死去した。


 母は浅井亮政の唯一の嫡女・浅井鶴千代。息子は木村重成の番頭・内藤長秋。
 交渉(対武家)に長けていたのか、幾度か淀殿の名代として遣わされている。まず、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、淀殿の名代として妹・初(常高院)のいる大津城へ京極竜子を救いに遣わされた。高台院の名代である孝蔵主、高野山の使者・木食応其と共に大津開城を成功させている。その後、竜子を無事に京都へ送り届けた。
 慶長19年(1614年)、方広寺の鐘銘事件の際、大蔵卿局とともに駿府に下向した一人でもある。大坂冬の陣の講和のときも、徳川家康のもとに再度の血判を求めに常高院とともに使者に立った。
 慶長20年(1615年)、息子の長秋と共に大坂夏の陣において豊臣秀頼及び淀殿母子に殉じ義を貫いた(「三十二義士」として記録に残る)。後年、悪し様に言われた淀殿の人となりをしのばせる存在の一人である。大蔵卿局の活躍であまり目立たないが、大坂城において大いに活躍した女性の一人である。 

浅井政貞 浅井久政

 尾張苅安賀城主。尾張浅井氏当主・浅井高政(新三郎)の子と伝わる。尾張浅井氏は近江国の浅井氏の庶流ともいわれるが、近江浅井氏がまもなく有名になったために系譜を仮冒されたものであるとも考えられる。諱は、子孫から江戸幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によれば、某氏とされ、政貞あるいは政澄に作るとある。賢政,政高,信広などもあるが、文書が確認できるのは信広である。
 尾張国中島郡の苅安賀城に住み、織田信長に仕える。信長にはその尾張統一以前の早い時点から仕えたと考えられ、永禄年中に赤母衣衆の一員となった。永禄11年(1568年)9月の上洛の際、佐久間信盛,木下秀吉,丹羽長秀と共に箕作城を攻撃してこれを落としたことが『信長公記』に記載されている(観音寺城の戦い)。以後、浅井攻め,長島攻めなど随所に従軍し、馬廻ながら前田利家や佐々成政と同程度の小部隊の指揮官として活躍。
 天正2年(1574年)以降は尾張・美濃の支配を行うこととなった織田信忠の軍に尾張衆の一員として組み入れられ、天正4年(1576年)に信忠に従って播磨国に出兵して砦の守将とされた。しかしこの記録を最後にして、以降は没したためか史書には登場しない]。『尾張群書系図部集』によれば、天正9年(1581年)5月24日死去とされる。


 天文11年(1542年)に父・亮政が没したため跡を継いだが、武勇に優れた父とは対照的に武勇に冴えなかった。亮政は正室との間に生まれた海津殿(久政の異母姉)の婿として、田屋明政に家督を譲ることを望んでいたともいわれるが、亮政と側室との間に生まれた久政が家督を継ぐこととなった。そのため、義兄・明政は久政の家督相続を承服せず、反乱をおこすなど久政の家督相続は家中に少なからぬ禍根を残す結果となった。
 久政が当主となってからの浅井家は次第に六角氏の攻勢に押されてついにその配下となってしまった。嫡男に六角義賢の一字「賢」の字を偏諱として受けさせ、「賢政」と名乗らせたり、六角氏家臣・平井定武の娘を娶らせるなど、六角氏に対しては徹底した従属的姿勢をとった。
 このような久政の弱腰外交に家臣たちの多くが不満をもつようになり、永禄3年(1560年)に久政の嫡男・賢政(のちの長政)が野良田の戦いで六角義賢に大勝し六角氏から独立すると、家臣たちから家督を長政に譲ることを強要され、強制的に隠居させられることとなった。一時は竹生島に幽閉されていたほどである。しかしこのクーデター的家督移譲には不明瞭なところが多く、久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけ、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたとされる。
 そのような発言力を持った状態で、織田氏と朝倉氏が対立を深め、両家と同盟関係にあった浅井家はどちらにつくかの決断を迫られた場面で久政は強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れる形で信長に反旗を翻すが、数年間の抵抗の末、浅井・朝倉連合は織田氏に敗北する。
 天正元年(1573年)、織田軍は一乗谷陥落後、打って返して小谷城を攻撃。京極丸を羽柴秀吉隊に落とされ、久政の籠る小丸は長政の本丸と分断された。羽柴勢はそのまま小丸を攻撃。最期を悟った久政は井口越前守,脇坂久右衛門らを呼び、「今よりわしは腹を切るゆえ、その間敵勢を食い止めてくれ」と言い渡した。彼らは羽柴勢より屋敷を死守。久政は一族・浅井福寿庵,舞楽師の森本鶴松大夫と共に盃を傾けた後に切腹した。これを福寿庵(惟安)が介錯し、次に福寿庵を鶴松大夫が介錯した。鶴松大夫は、「主君と同じ座敷では恐れ多い」と言って庭へ降り、そこで切腹して果てた。それを見届けた脇坂久右衛門もすばやく腹を切ったという。
 内政官的な久政ではあったが、湖北武士の名に恥じない最期であった。長政もやがて自刃し戦国大名浅井氏は三代で終幕した。 

浅井長政 浅井万福丸

 天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江の観音寺城下で生まれる。当時、浅井氏は六角氏に臣従し、長政自身も生母・小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。
 15歳で長政が元服した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に六角氏当主である六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強いた。このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続した。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため「賢政」の名と平井定武の娘を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。
 永禄3年(1560年)8月中旬、長政(新九郎)は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦い振りをみせ、重臣の赤尾清綱,海北綱親,遠藤直経らを心酔させたと言われている。同年10月、父の久政が重臣らによって隠居させられ、家督を継いだ。永禄6年(1563年)には観音寺騒動もあり、六角氏との停戦協議により膠着状態が続く。
 1560年代、織田信長は美濃国斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論であり、遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞うたびに、互いに挑発を繰り返していた。同盟の際、長政は永禄11年頃に信長の妹の於市を妻とした。婚姻は永禄8年(1565年)とする説もある。信長は浅井との同盟により上洛経路を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を大いに喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている。
 元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は殿を務めた羽柴秀吉らの働きにより、命からがら近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある。
 同年6月、長政は朝倉軍とともに近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦うが(姉川の戦い)、織田徳川連合軍の勝利に終わった。なお、この戦いで名もない兵卒として参戦した藤堂高虎は、多くの武功を上げて長政に感状を送られている。
 姉川の戦いの後、しだいに信長包囲網が形成される。元亀3年(1572年)7月、信長が北近江に来襲すると、長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いた。同年9月には将軍・足利義昭の要請に応える形で武田信玄が甲斐を進発する。長政らに与えられた役割は、武田軍の進行を有利にするため北近江の織田軍を岐阜に戻さないことであった。織田軍の物量に押されじわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。
 しかし、同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国。義景の撤退により北近江に縛られていた織田軍は美濃に戻った。信玄は義景の独断での帰国に激怒している。元亀4年(1573年)2月には信玄が倒れ武田軍が甲斐に退却したことにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向けることが可能になった。
 天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし、やむなく義景は越前に撤退を始めた。信長は逃げる朝倉軍を追撃し滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、軍を浅井氏に向けた。もはや浅井軍は信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城が織田軍に囲まれる。信長は家臣・不破光治、さらに羽柴秀吉を使者として送り降伏を勧めたが長政は断り続け、最終勧告も決裂した。於市が信長の陣営に帰還する際、浅井・織田軍共に一切の攻撃をしなかったと言われている。同年9月1日(9月26日)、父の久政と共に自害。享年29。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。
 『信長公記』には天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において漆塗りに金粉を施した義景・久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。なお、これを杯にして酒を飲んだという俗説もあるが、史料もなく、信長はあまり酒を飲まなかったため後世の作り話と考えられる。 

  『翁草』によれば、長政には2男3女があるが、万福丸は『信長公記』に基づく市の入嫁以前の出生で、長政は六角氏重臣・平井定武の娘との婚約を行っているほか側室の存在も確認されるため、万福丸と次男・万寿丸は於市の出子でなく継母となった於市の養子となった説もあるが、於市の入嫁時期を永禄4年(1561年)とする見解を示す説があり、於市の出子や三姉妹との双子である可能性を示している。
 天正元年(1573年)、織田信長の攻撃によって小谷城は落城。江戸時代後期に成立した『翁草』によれば、長政の家臣団によって万福丸は落ち延びていたが、信長の探索によって捕らえられた。於市は助命を嘆願したが、生かしておいては後の災いになることを恐れた信長の命を受けた羽柴秀吉の手により、万福丸は美濃関ヶ原で磔(田楽刺しとの説もある)に処され、その生涯を閉じた。享年10とされる。 

浅井万寿丸 浅井茶々(淀殿)
 『翁草』『 浅井三代記』によると、浅井長政の滅亡の天正元年(1573年)5月に生まれ、中島左近,小川伝十郎が保護し近江国長沢村の福田寺の弟子となり、慶安となったとする。天正元年に産まれということはお江とは同い年なので庶子である。『浅井氏家譜大成』では「虎千代丸長明」とされるが、『寛政重脩諸家譜』では「万寿丸長秀」で、仏門に入り正芸と号し、院号は伝法院。近江国坂田郡長沢村の福田寺の住職となったとある。この正芸はのちに還俗して、直政と名乗り、豊後に移住したとする別説もある。 

 近江国小谷に生まれる。天正元年(1573年)、小谷城落城の際、母・於市ら三姉妹は藤掛永勝に救出され、その後は伯父の織田信包のもとにおかれ、安濃津城または清洲城で保護されていたという。
 天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、6月27日の織田家後継者を決める清洲会議によって、母・於市は柴田勝家と再婚し、娘達とともに越前国北ノ庄城へ移る。天正11年(1583年)、羽柴秀吉と対立した勝家は賤ヶ岳の戦いで敗北し、北ノ庄城の落城の際に於市とともに自害したため、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた。その後、一般的に叔父の織田長益の庇護の下、安土城に住み、後に聚楽第で伯母の京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたといわれている。
 天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となる。秀吉は茶々の母・於市に憧れていたとされ、三姉妹の中で母の面影を一番よく受け継いでいた長女の茶々を、側室に迎えたという。天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜り、以後「淀の方〕と呼ばれるようになった。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を生み、秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った。なお、鶴松を産んだ時に高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめ、秀頼を産んだ時に父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院を建立した。秀吉の死後、高野山などの修復にも当たっている。
 慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成が大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際には、家康と国元に居る毛利輝元に対して至急大坂に戻って謀叛の動きを抑えこむよう、現職にある三奉行と連名で書状を送っている。その後、大坂城に入った毛利輝元が石田方(西軍)の総大将となり三奉行もそれに同調するが、石田方が切望したと思われる秀頼の墨付きの発給や、秀頼の出陣などは許さず、石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。なお家康は、淀殿らからの書状を石田・大谷の動きが謀叛であると諸大名に主張する材料とし、その後、三奉行が家康糾弾の「内府ちかひの条々」に署名したが、淀殿からは先の書状を覆す文書が発給されなかったことも、家康に「秀頼様の御為」という大義名分を維持させることとなった。9月15日の関ヶ原における徳川方(東軍)の勝利の後、家康は淀殿の信頼の厚い大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答している。毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、そこで家康を饗応した際に、淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるよう強く求め、家康は秀頼の父親代わりたるべきと公に宣言した。
 家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家の支配地は大坂65万石となってしまった。淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握る。江戸に武家政権を構築し始めた家康とは対立。暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。慶長19年(1614年)、関東との交渉役・片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。淀殿は自ら城内で閲兵・督戦を行うが、期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。しかし、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂城は落城、秀頼や大野治長らと共に自害した。墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。しかし淀殿の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。落ち延びた先としては薩摩や上野に伝承が残っている。 

浅井 初 浅井 江

 天正元年(1573年)、小谷城落城の際、母・於市ら三姉妹は藤掛永勝に救出され、以後、織田家の下で保護を受ける。
 天正10年(1582年)、6月2日の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、6月27日の織田家後継者を決める清洲会議によって、母・於市は織田家の家臣・柴田勝家と再婚し、娘達とともに越前国北ノ庄城へ移る。天正11年(1583年)、清洲会議がきっかけで羽柴秀吉と対立した勝家は賤ヶ岳の戦いに敗北し北ノ庄城の落城の際に於市と共に自害したため、三姉妹は敵側の秀吉の庇護を受ける。
 天正15年(1587年)、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたる京極家の当主であり従兄でもあった京極高次と結婚する。慶長5年(1600年)、石田三成ら(西軍)が挙兵すると京極高次は三成側に就くと思わせ、関ヶ原の戦いで大津城に籠城して東軍に転じる(大津城の戦い)。結戦前に開城したものの、西軍を足止めした功績で京極高次は若狭一国(若狭小浜8万5,000石)を与えられる。
 慶長14年(1609年)、夫・高次と死別すると、剃髪・出家して常高院と号す。この頃から甥・豊臣秀頼と徳川家康の対立が露呈するようになり、常高院は豊臣方の使者として仲介に奔走した。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では徳川側の阿茶局とともに和議を取りまとめ、両家の和議に尽力した。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、秀頼の娘・奈阿姫(後の天秀尼)の助命を家康に嘆願したとも言われている。その後は妹・江とよく会っていた。江が亡くなる少し前に、常高院は江戸で再会し対談したという。寛永10年(1633年)、京極忠高の江戸屋敷で死去、享年64。

 天正元年9月1日(1573年9月26日)、小谷城落城の際、母・於市ら三姉妹は藤掛永勝に救出され、以後、織田家の岐阜城に留まり、伊勢上野城主で信長の弟の織田信包に預けられたという。
 天正10年(1582年)、本能寺の変での信長の死後、は、家臣の明智光秀による謀反で横死する。6月27日、織田家の後継者を決める清洲会議により、母の市は織田家臣の柴田勝家と再婚した母・於市とともに越前国北ノ庄城へ移る。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城し、勝家・於市が自害すると、江ら三姉妹は北ノ庄を脱出して秀吉により保護されたとされる。
 この頃、江は秀吉の意向により、尾張国知多郡大野領主で従兄にあたる佐治一成のもとへ嫁いだという。 佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたという。江と一成の婚姻時期・事情については記録が見られないが、天正12年(1584年)に秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と戦い、信雄方の一成は戦後に大野を追放され、江とも離縁したといわれる経緯から、同年初めに想定されている。一方で、近世の鳥取池田家に伝来する佐治氏の由緒書には、婚姻を信長存命時の天正2年(1574年)としている。同年には一成の父・信方が戦死し、信方戦死後にお犬の方は織田家に戻って他家へ再嫁していることから、江と一成の婚姻は信長の意向により織田家と佐治氏の関係を修復する意図であった可能性も考えられており、また婚約のみで実際に嫁いでなかったとする説もある。
 その後、秀吉の実の甥で養子の丹波国亀山城主・豊臣秀勝の元へ嫁ぐ。秀勝への再嫁時期は不明であるが、文禄元年(1592年)もしくは秀勝が秀吉の養子となった天正14年(1586年)以降であると考えられている。江は京都聚楽第の秀勝の屋敷に居住し、秀勝とともに甲府や岐阜へは赴いていないと考えられている。秀勝と江の間には娘の完子がおり、茶々の猶子として引き取られ、同格の摂関家である九条家に嫁いでいる。
 文禄4年(1595年)9月17日には伏見において徳川家康の嗣子である秀忠に再嫁する。秀忠は天正18年(1590年)に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の死去により婚礼は立ち消えとなっている。秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に家光・忠長など2男5女を儲けた。 大坂の陣では豊臣家が滅亡して姉の淀殿を失う。しかし、淀殿が父・浅井長政の供養のために建立した養源院が、元和5年(1619年)に火災で焼失すると、江の願いで元和7年(1621年)に幕府が再建している。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。死後は長男・家光によって増上寺に埋葬された。 

浅井井頼 浅井くす

 讃岐丸亀藩客分。浅井長政の庶子で通称は喜八郎、周防守。諱は複数伝わり、政信,政賢,政堅,長春,政資,長房など。晩年は作庵と号した。
 小浜の常高寺に遺されている常高院(初)が死去する直前に書いた遺言状の写しには、「いまさらすてられ候ハぬ」と弟の井頼を気遣う内容が記されている。初は元亀3年(1570年)、父・長政が自害する天正元年(1573年)の生まれなので、江と双子でなければ生母は於市以外の側室であると推考される。
 天正11年(1583年)から天正13年(1585年)の間に、羽柴秀吉の養子・於次丸秀勝に仕えている。秀勝の死後、秀吉の弟・秀長に仕えて6百石の知行。さらに文禄3年(1595年)の秀保の死後は、大和郡山城を引き継いで入部した増田長盛に仕えて3,000石を給される。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属した増田長盛が改易されると浪人。東軍に与した生駒一正を頼って讃岐国丸亀城に身を寄せた。その後、生駒家を出奔、慶長18年(1613年)に山内家に仕官するも、旧主君・生駒正俊の奉公構がはいり慶長19年(1614年)春山内家を辞す。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の際は長姉・淀殿のいる豊臣側に加わって、大坂城に入り、二の丸の東を守備。翌年(1615年)の夏の陣では毛利勝永の隊にあり、大坂城落城後に脱出して再び浪人となった。
 将軍・徳川秀忠に嫁いでいる崇源院(江)を頼ることはできなかったため、次姉・常高院(初)を頼って若狭国小浜藩に流れる。常高院の夫の京極高次はすでに亡く、高次の子で(井頼の)義理の甥にあたる忠高の代となっていたが、常高院の願いで京極氏に庇護され、出家して作庵を称し、客分待遇で500石の知行を与えられた。京極氏は忠高に男子がなく、忠高の甥で讃岐国丸亀藩に移封された初代藩主・京極高和は(井頼と)直接的な血縁・縁戚ではないが、浅井作庵の子孫は丸亀藩士として続いた。丸亀市南条町の京極家の菩提寺である玄要寺には、京極作庵の名で過去帳にあり、丸亀藩士となった井頼の子孫のものと伝わる墓がある。 

 若狭国三方郡早瀬浦の生まれとされる。『三方郡誌』には「或は云ふ、侍女は浅井長政の女なりと。又云ふ、秀吉の妾壽芳院(松の丸殿)の乳母なりと。」の記述が残る。くすの幼少時の記録は残らないが、松の丸殿に仕えたところを見ると、浅井宗家滅亡後は伯母である養福院の縁で引き取られたのではないかと考えられる。
 父方の伯母・京極マリアの子で、従姉妹である京極竜子の侍女(姥)を務めたほか、豊臣秀吉にも近侍した。三方郡金山村の曹洞宗寺院・龍澤寺を再興した記録が残る。晩年までに出家しているらしい。おそらく松の丸殿の出家と同時期と思われる。

刑部卿局 阿久姫

 元亀元年(1570年)に浅井長政の娘として誕生する。慶長2年(1597年)、徳川秀忠の正室で異母妹の江(崇源院)が妊娠した際、乳母となる。当時江の侍女だった民部卿局と共に上臈として仕えていた。
 慶長8年(1603年)、千姫が7歳で豊臣秀頼と結婚すると、侍女の松坂局とともに大坂城に入る。千姫には教育係として京風作法も教えた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では徳川家康の命により松坂局,千姫侍女・早尾と共に千姫を守り、逃げた。『柳営婦女伝系』によると、大野治長に「千姫を逃がし、秀忠と家康に淀殿と秀頼の助命嘆願をして欲しい」といわれ、淀殿のところへ行くと淀殿は千姫の着物の袖を自分の膝の下に敷き懐剣を握り、何かあれば刺し殺しかねない様子だった。その時、刑部卿局が機転を効かせて「秀頼様、御自害」と叫んだので、淀殿は驚いて秀頼のもとへ走って行った。その隙に待女たちは千姫を蒲団で巻いて外へ出した、という。 千姫は用意された輿に乗り、刑部卿局,松坂局など侍女たちは徳川家の家臣の馬の後ろに乗って逃げたとも。
 元和2年(1616年)、千姫が本多忠刻に再嫁する前、千姫は満徳寺に入寺し、秀頼との縁を切った。その時に代理として松坂局が訪れ、身代わりに刑部卿局が俊澄尼と号して住職となった。
 寛永3年(1626年)、千姫の嫁いだ本多忠刻、姑の熊姫が次々と亡くなると、千姫は江戸へ帰らされる。俊澄と号した刑部卿局と松坂局もそれに伴う。寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を千姫が再建する。正保元年(1644年)、迷信を避けるために江戸城から移った千姫は、弟の3代将軍・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の3男・徳川綱重と暮らすようになる。その時、松坂局は綱重の乳母となり、刑部卿局は竹橋御殿の女性達を統括した。
 明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋御殿が焼失した時には、紀州徳川家の屋敷に千姫やほかの女性達と共に一時寄留する。万治4年(1661年)、江戸で死去。享年92。 

 久政の長女であるが、庶子のため祖父・浅井亮政の養女となる。母とともに実宰院(当時は実西庵)に移り住み、母の死後に庵主となった。
 寺伝によれば、彼女は身長が5尺8寸(176cm)あり、体重が28貫(105kg)の大女であったため、嫁入りをあきらめて天文11年(1542年)に出家し、小谷城の南4kmの平塚村に庵を建てて移住し、実宰院の開基者となったとされる。しかし、実際彼女が出家したのは6歳の時であり、出家の理由は疑わしい。ただ、成長した彼女が長身であったことから伝えられたのかもしれない。
実宰院境内には花一輪に2個ずつ実をつけるという双子の梅がある。阿久が出家するときに弟の長政が姉に贈ったものと伝えられている。また小谷落城のとき、弟・長政は娘の茶々,初,江を城から出して、阿久に養育を依頼したという。
豊臣秀吉によって実宰院に庵料として50石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井三代を祀ったという。江戸時代に入っても秀吉の与えた50石は御朱印状で認められている。また、秀吉によって50石の庵料を与えられたことは、茶々との関係を暗示しており、三姉妹を保護したのは小谷落城時ではなく茶々たちの居場所が不明な時期、北庄落城後ではないかとも言われている。

浅井マリア 大文字屋治政

 名は不明で、戒名から福,慶と想定されることが多い。なお、当時は夫婦別姓なので、本来は京極姓で呼ぶのは適切ではないが、明智珠の細川ガラシャ,沼田麝香の細川マリア,黒田妙の高山ジュスタなどの例があり、否定はできない。
 天文11年(1542年)頃、浅井久政の次女として小谷城で生まれる。京極高吉に嫁ぎ、子は永禄6年(1563年)に小谷城で高次,元亀3年(1572年)に高知,時期は定かでないが竜子、他に2人の娘(氏家行広室,朽木宣綱室・マグダレナ)を設ける。天正元年(1573年)より前に、夫は嫡男の高次を織田信長に人質として送り上平寺に隠居しており、そこで共に暮らしたと考えられる。
 天正9年(1581年)、夫・高吉と共に安土城城下でオルガンティノ神父より洗礼を受け、洗礼名としてドンナ・マリアを授かるが、その数日後に高吉は死去する。
 天正15年(1587年)にバテレン追放令が豊臣秀吉により発せられた後も信仰を貫き、秀吉の側室となった竜子を除く4人の子が洗礼を受けたとされる。京や大坂での布教活動を経て、関ヶ原の戦いの後には次男の高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、高知の庇護の下此御堂という建物を中心に布教活動を行い、更なる信仰を深めたという。泉源寺村は丹後の最東端に位置し、若狭との国境に近いことから選んだとされ、長男が領する若狭の小浜にもたびたび足を運んだともいわれている。地元の民には「泉源寺様」と呼び慕われ、元和4年(1618年)7月1日に死去。 

 浅井久政の子で、元の名前を浅井治政という。天正元年(1573年)に小谷城で兄の長政が滅ぼされたのち、越前国の宝円寺(越前市高瀬町)に隠れていたのを知った前田利家は、小袖や金子を与え、越前国府中(越前市武生)の商家・大文字屋茂左衛門の養子にして保護したとされる。
 妻は朝倉氏旧臣・上木新兵衛の娘・八重(前田利家の側室・寿福院の妹)。子女に雁金屋弥十郎妻など。利家より知行も与えられ、懇意にしていた。代々江戸時代は府中(武生)の総代を務め本陣を兼ねた。子孫は現在も武生市に在住しており、浅井姓を名乗っている。

浅井吉政 浅井惟安

 浅井氏庶家・浅井亮親の子。天正元年(1573年)に宗家であり主君の浅井長政は、織田氏に本拠の小谷城を攻められて滅亡する。その際に父・亮親も処刑されている。吉政は叔父の浅井盛政(亮親の従兄弟)とともに難を逃れ、盛政の養子となった。間もなく盛政とともに藤堂高虎に仕え、高虎の甥の賢政を養子に迎えた。しかし、藤堂一族の専横独占に不満を持ち、賢政との養子縁組を解消し、養父とともに出奔し羽柴秀吉に仕えた。
 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方の武将として戦い(羽柴方からの寝返り説あり)羽柴方の加藤嘉明によって討たれた。なお、同族の浅井井頼や平野長泰,渡辺了などの羽柴方武将に討たれたという説もある。

 浅井氏の一族であり浅井清政の子といわれるが定かではない。当主・浅井久政の近侍を務める。久政の隠居後もこれに従った。小谷城の福寿丸に居を置き、その名がそのまま丸名へとつながった。小谷城落城時は、京極丸を守った後に小丸にて久政自害に付き従い、介錯を務めた後、自害。子孫は美濃国に落ちのびたと伝わる。
浅井亮親 浅井直種

 浅井氏の庶家にあたる。元亀元年(1570年)、織田氏による朝倉氏侵攻をめぐり宗家・浅井長政が父の浅井久政や重臣達の意見に押されて織田信長を裏切ろうとした際は、これに反対し諌めた。しかし、長政は離反の道を選び、浅井氏は信長と敵対関係となる。
 天正元年(1573年)に浅井氏は織田軍に攻められ滅亡すると、亮親も捕らえられ織田諸将の前に引きだされた。そこで亮親は信長に痛烈な罵倒の言葉を浴びせ、激怒した信長に直接処刑されたという。

 京極氏の家臣で浅井氏の庶流に当たる。子に政種,亮政,井演。浅井政信も直種の子という説がある。浅井忠政の弟で、浅井直政の叔父と伝わる。甥で宗家の浅井直政に男子がいなかったため、子の勝政(後の亮政)を養子として出した。
 明応5年(1496年)、美濃守護・土岐氏の内乱(船田合戦)において、石丸利光討伐のため美濃守護代格の斎藤妙純が近江守護・京極氏に援軍を求めた時には、直種も京極方援軍として出陣している。利光はこの戦いで敗れ自刃している。京極氏もお家騒動(京極騒乱)から内戦が起こり、直種は京極材宗と共に文亀元年(1501年)に京極高清,上坂家信と戦う。永正2年(1505年)には高清と材宗の間で和議が結ばれ、後継者争いは終結した。

浅井井規

 浅井氏の家臣。浅井長政の子の井頼の実父ともいわれる。
 元亀2年(1571年)に堀秀村が篭る鎌刃城に攻めかかったが、横山城から救援に訪れた木下秀吉に敗れた。天正元年(1573年)の小谷城攻防戦では、木下秀吉に内応し軍を城に引き入れるなどし、小谷城落城の手助けをするが、織田信長は井規の降伏を許さず、戦後に処刑された。