<藤原氏>北家 閑院流

F574:三条西実条  藤原公季 ― 藤原公実 ― 三条公教 ― 正親町三条公氏 ― 三条西公時 ― 三条西実条 ― 武者小路公種 F575:武者小路公種

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武者小路実陰 武者小路実世

 西郊家に生まれ、実父は正親町三条家庶流の西郊実信であったが、大伯父で堂上家の武者小路公種の養子となり武者小路家を継ぐ。実陰が養子に出ることにより西郊家は一度絶えたが、実陰の次男・重季により再興された。
 和歌の師である霊元上皇から古今伝授を受け、また三条西実教にも師事した。清水谷実業,中院通躬らと共に霊元院歌壇における代表的な歌人であった。弟子に似雲がいる。
 非参議・参議として長らく朝廷に仕え、宝永4年(1703年)には勅使として関東に下向した。正徳5年(1715年)、55歳の時に中納言に任じられた。また享保9年(1724年)、64歳の時にはさらに大納言に昇進した。
 享保年間には甲府藩2代藩主・柳沢吉里は中御門天皇の勅命を得て、中院通躬ら7人の公家に甲斐国の名所を詠んだ和歌を作らせ、これらの歌を「甲斐八景」と定めた。実陰ら甲斐八景の和歌を詠んだ公家はいずれも甲斐を訪れていないため実景のイメージと異なる点もあるが、実陰は「竜華秋月」と題して、現在の山梨県甲府市上曽根町に所在する曹洞宗寺院・龍華院から見た秋月を詠んだ「名にしおはゝ峰なる秋の月やしるその暁の花のひかりも」の歌を残している。
 さらに元文3年(1738年)には死の直前にあたり、新家の羽林家としては破格の従一位に叙され、准大臣に任じられた。これは長年にわたる朝廷への出仕と、中御門・桜町両天皇の歌道師範となる等、歌道への多大な貢献が評価された結果とされる。同年9月30日、薨去。
 歌論書に『初学考鑑』,『詞林拾集』(似雲編纂),『高松重季卿聞書』、家集に『芳雲集』(武者小路実岳編纂)がある。

 明治時代前半の日本の裁判官で大日本帝国憲法の設置に関わった。
 山城国の武者小路家当主・実建の次男として生まれた。のち22歳年上の兄・公香の養子となる。1868年(明治元年)、18歳で秋子と結婚し、1870年(明治3年)に上京。
 翌1871年(明治4年)11月、岩倉使節団の留学生としてドイツに2年半滞在し、1874年(明治7年)7月に帰朝。1875年(明治8年)には萬里小路道房とともに、大久保利和,藤波言忠らの東京青森間鉄道計画を支持して華族票を集め、次いで日本鉄道会社の発起人の一人となった。
 1876年(明治9年)、当主だった兄の公香が死没し、公香は男子が夭折していたため、26歳で武者小路家の当主となる。
 1879年(明治12年)、学習院の顧問グイド・フルベッキとともに法学者ヨハン・カスパール・ブルンチュリの論文を邦訳し『国会議員選挙論』として刊行。1881年、獨逸学協会の会員となる。同年10月21日に内閣が更迭され参事院(内閣法制局の前身)が置かれたが、ここで大日本帝国憲法発布の準備に関わったという。
 華族会館司計局長,麹町区議会議員,熊谷裁判所判事を歴任。1884年(明治17年)7月に子爵を叙爵。1886年(明治19年)、麹町の自宅を日本赤十字社の事務所として提供した。
 1887年(明治20年)10月27日、37歳で結核により死去。

武者小路実篤

 兄弟の上の5人は夭折しており、姉の伊嘉子,兄の公共と育った。2歳の時に父が結核で死去。
 1891年(明治24年)、学習院初等科に入学。得意科目は朗読と数学で、体操と作文が苦手だった。同中等学科6年の時、留年していた2歳年上の志賀直哉と親しくなる。同高等学科時代は、トルストイに傾倒、聖書や仏典なども読んでいた。日本の作家では夏目漱石を愛読するようになる。1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らとつくった「十四日会」で創作活動をする。同年、東大を中退。翌年には処女作品集『荒野』を自費出版した。1910年(明治43年)には志賀直哉,有島武郎,有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれ、実篤は白樺派の思想的な支柱となる。夏目漱石とも親密な交流を続けた。1913年(大正2年)、竹尾房子と結婚。1916年(大正5年)には、柳宗悦や志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。
 理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に、村落共同体「新しき村」を建設した。実篤は農作業をしながら文筆活動を続け、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし同村は川原ダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に、新たな村落共同体「新しき村」を建設した。ただし実篤は1924年(大正13年)に離村し、実際に村民だったのはわずか6年である。この両村は今日でも現存する。
 1922年(大正11年)、房子と離婚し、飯河安子と再婚。翌年の関東大震災で生家が焼失。『白樺』も終刊となった。この頃からスケッチや淡彩画を描くようになる。また油絵も描き、1929年(昭和4年)には東京・日本橋の丸善で個展も開いた。
 1936年(昭和11年)、4月27日からヨーロッパ旅行に出発。12月12日帰国。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。1937年(昭和12年)、帝国芸術院に新設された文芸部門の会員に選出される。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、日本文学報国会劇文学部会長を務めるなどの戦争協力を行った。
 1946年(昭和21年)3月22日には貴族院議員に勅選されるが、同年9月には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊、『真理先生』を連載。1951年(昭和26年)、追放解除となり、同年に文化勲章を受章した。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」や「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。1955年(昭和30年)、70歳で調布市仙川に移住、亡くなるまでこの地で過ごした。
 1971年に志賀直哉が亡くなった際、実篤は彼の葬儀に駆けつけて弔辞を述べたが、細々とした声で聞き取れた人はいなかったという。1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある東京慈恵会医科大学附属第三病院で尿毒症により死去。享年92。