<藤原氏>北家 道兼流

F645:宇都宮泰綱  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 F647:武茂泰宗

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武茂泰宗 武茂泰藤
 宇都宮貞綱が元寇の際、執権・北条時宗の命を受け、蒙古討伐軍総大将として九州に下った時に同行し、筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点とした。瀬高には、藤原氏北家閑院流の三条家から分かれた徳大寺家の荘園があり、宇都宮泰宗は荘官としてその管理とも関わっていた。  大久保氏の遠祖。乾元元年(1302年)、武茂時綱の子として下野国宇都宮に生まれる。氏を宇都宮に戻し、左近将監と称す。新田義貞の重臣。妻は美濃国里見城城主の土岐伊予守頼直の娘・徳子。建武2年(1335年)、脇屋義助に属して京都の山崎において、足利尊氏と戦って敗北した。翌建武3年(1336年)、新田義貞に従って越前国に逃れており、再び足利方の高師泰らと戦っている。その後、延元3年(1338年)8月17日に新田義貞が越前国藤島で戦死すると、義貞の首を持ちながら各地を転々と彷徨った後、その首を葬ってから出家、法華宗に帰依して美濃将監、宇都宮入道蓮常と号した。三河国上和田郷の妙国寺前に移り住んだ。正平7年(1352年)、51歳で病没した。
宇都宮貞久 宇都宮貞邦
 豊前は同族の宇都宮宗房以来の豊前宇都宮氏の本拠地であり、南北朝時代、豊前宇都宮氏は北朝方に属したが、貞久は弟の貞邦と共に南朝方に属し、肥後国八代に移り、征西府の懐良親王直属の軍団の武将となる。筑後川の戦いで弟の貞邦と子の懐久が討ち死にするなどした後、孫の宇都宮久憲は筑後国に移り、同地に土着すべく下筑後(筑後南部)の嵯峨源氏の蒲池氏の名跡と遺領を継いだ。   父の貞泰は伊予国から南朝の懐良親王と共に豊前国に移り、仲津郡に住す。豊前は北朝方の豊前宇都宮氏の勢力地であったため、貞泰の死後、貞邦は兄・貞久と南朝方の菊池氏の肥後国八代に移る。懐良親王の親衛軍の武将として、筑後川の戦いに兄の貞久,甥の懐久と共に出陣し討ち死にした。 
宇都宮懐久 大木統光

 伊予国から南朝の懐良親王と共に豊前国仲津に移った宇都宮貞泰の子の貞久と弟の貞邦は、同族の豊前宇都宮氏が、北朝方であったため、懐良親王と南朝方の菊池氏の本拠地の肥後国八代に移る。貞久の嫡子の懐久も同行。
 宇都宮貞久,貞邦,懐久は、正平14/延文4年(1359年)の筑後川の戦いに懐良親王直属の軍の指揮武将として戦い、貞邦,懐久は討ち死にする。懐久の嫡子の久憲(久則)は祖父の貞久と共に、その後も南朝方の武将として筑後国を転戦する。
 九州の南朝が凋落すると、九州に領地を持たない宇都宮久憲は、永らく当主不在のままであった筑後国の蒲池氏の娘(蒲池武久の娘)を妻に迎え、蒲池久憲と名のり、蒲池氏の名跡と遺領を相続する。

 大木氏は、筑後宇都宮氏の蒲池久憲の弟である宇都宮資綱の子の大木政長にはじまる。大木統光は政長の子孫で、蒲池鎮漣の母親の貞心院は田尻鑑種の姉だったが、大木統光の母は鑑種の妹であり、統光は鎮漣とは従兄弟になる。名を俊光,知光とも。「統」の字は大友義統からの偏諱。
 主君の鎮漣が和睦したばかりの龍造寺隆信の執拗な誘いを断りきれず肥前国へ出立したことを知ると、鎮漣の後を追いかけ、危険であると肥前行きをやめるように諌めるが聞き入れなかった。後に肥前で蒲池鎮漣が謀殺されたことを知った統光は、佐賀へ馬を走らせ鍋島直茂の元へ行き、鎮漣の後を追い切腹しようとしたが止められ浪人となる。のちに鍋島氏に召し抱えられ、その子孫は鍋島藩の大物頭となり、明治の政治家で華族(伯爵)の大木喬任も子孫の一人。

大木喬任

 藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)、副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。
 1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士,参与,軍務官判事,東京府知事などを務めた。江戸を東京とすること(東京奠都)に尽力した。1871年(明治4年)に民部卿,文部卿として学制を制定。1872年(明治5年)に教部卿を兼任。1873年(明治6年)、参議兼司法卿。1876年(明治9年)の神風連の乱、1879年(明治12年)の萩の乱の事後処理に当たった。
 戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長,参議などの要職を歴任した。
 1884年(明治17年)、華族令施行によって伯爵に叙せられた。1888年(明治21年)に枢密顧問官、1892年(明治25年)に枢密院議長再任。1899年(明治32年)に死去、享年67。