| F656:横田頼業 | 藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 横田頼業 ― 秋元泰朝 | F657:秋元泰朝 | ● |

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| 秋元泰朝 | 秋元喬知 |
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徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣後、大坂城の堀の埋立に功績があった。豊臣氏滅亡後の残党狩りも行った。 |
下総佐倉藩主戸田忠昌の長男。男子のなかった外祖父の谷村藩主・秋元富朝の養子となる。奏者番から寺社奉行,若年寄,老中を歴任する。5代将軍・徳川綱吉、6代将軍・家宣の2代にわたって仕えた。土木行政に手腕を発揮し、江戸城三の丸建設や護国寺,寛永寺中堂,厳有院仏殿などの造営奉行、元禄大地震の復興総奉行を担当した。また好学の名君であり、将軍・綱吉に進講することもあった。 |
| 秋元凉朝 | 秋元久朝 |
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4000石を領した大身旗本秋元貞朝の3男として生まれる。寛保2年(1742年)、先代の川越藩主で一族の秋元喬求の隠居により、養子として跡を継ぐ。幕府では寺社奉行,若年寄,老中を歴任した。老中在職は延享4年(1747年)から明和元年(1764年)。 |
寛政4年(1792年)閏2月23日、第2代藩主・秋元永朝の5男として生まれる。兄の修朝と知朝が相次いで早世したため世継とされ、文化4年(1807年)、従五位下・左衛門佐に叙位・任官する。文化7年(1810年)、父の死により家督を継いだ。文政6年(1823年)、但馬守に遷任する。天保10年(1839年)4月13日、甥で養子の志朝に家督を譲って隠居し、若狭守に遷任する。 |
| 秋元志朝 | 秋元礼朝 |
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文政3年(1820年)3月8日、周防徳山藩の第8代藩主・毛利広鎮の8男として生まれる。母が出羽山形藩の先々代藩主・秋元永朝の娘で、秋元氏と縁戚関係にあったことから、天保2年(1831年)に叔父にあたる第3代藩主・秋元久朝の養子となる。天保10年(1839年)4月13日、久朝の隠居により家督を継ぐ。 |
嘉永元年(1848年)5月16日、遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の5男として生まれる。安政6年(1859年)に館林藩の初代藩主・秋元志朝の養子となり、元治元年(1864年)10月に養父が禁門の変により江戸幕府から隠居させられたため、家督を継いで第2代藩主となる。慶応2年(1866年)に奏者番に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、飛び地領の河内から新政府軍に対して兵を派遣し、軍資金2万両を出して協力した。その功により明治2年(1869年)に賞典禄1万石を加増された。 |
| 秋元興朝 | |
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明治時代から大正時代の華族,外交官,貴族院議員。戸田忠至(宇都宮藩家老で、間瀬和三郎と称する)の次男。兄に戸田忠綱。 |