<藤原氏>北家 道兼流

F656:横田頼業  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 横田頼業 ― 秋元泰朝 F657:秋元泰朝


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秋元泰朝 秋元喬知

 徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣後、大坂城の堀の埋立に功績があった。豊臣氏滅亡後の残党狩りも行った。
 寛永5年(1628年)、父・長朝の死により家督を相続する。寛永10年2月3日(1633年3月12日)、甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩の城代として1万8000石に封ぜられる。寛永13年(1636年)には、日光東照宮の造営で総奉行を務めた。寛永19年(1642年)、この頃は全国的に深刻な寛永の大飢饉の最中であり、泰朝も対策にあたっていたが、10月23日に急死した。 

 下総佐倉藩主戸田忠昌の長男。男子のなかった外祖父の谷村藩主・秋元富朝の養子となる。奏者番から寺社奉行,若年寄,老中を歴任する。5代将軍・徳川綱吉、6代将軍・家宣の2代にわたって仕えた。土木行政に手腕を発揮し、江戸城三の丸建設や護国寺,寛永寺中堂,厳有院仏殿などの造営奉行、元禄大地震の復興総奉行を担当した。また好学の名君であり、将軍・綱吉に進講することもあった。
 綱吉亡き後に将軍になった家宣の側近・新井白石,間部詮房の正徳の治を支持した数少ない閣老であり、老中退任後も白石・詮房派として閣内に隠然たる影響力を残した。宝永4年(1707年)に八瀬童子と天台座主・公弁法親王の争いに裁定を下し、宝永5年(1708年)には禁裏造営奉行を、白石が発議した正徳金銀鋳造の総奉行を担当した。
 谷村藩主時代の秋元氏は用水堰の開発や郡内織の生産奨励などを行っているが、喬知の時代には河口湖から新倉村(富士吉田市)まで用水を引く新倉掘抜を着工したと言われている。川越藩主としては殖産政策で知られる。 

秋元凉朝 秋元久朝

 4000石を領した大身旗本秋元貞朝の3男として生まれる。寛保2年(1742年)、先代の川越藩主で一族の秋元喬求の隠居により、養子として跡を継ぐ。幕府では寺社奉行,若年寄,老中を歴任した。老中在職は延享4年(1747年)から明和元年(1764年)。
 涼朝は田沼意次の権勢が強まるのを不快に思っていた節があり、当時側衆の一人に過ぎなかった意次と殿中ですれ違ったとき、挨拶を欠いたのは老中に対する礼を失しているとその非礼をとがめた、というエピソードが伝わっている。
 明和元年(1764年)に老中を辞任するが、田沼の権勢に対する抗議の辞任とみられ、のちに川越から山形に転封させられたのは意次による報復と見る説もある。明和3年(1766年)、平賀源内を招いて川越藩は奥秩父中津峡の鉱山開発を行うが、田沼の介入を嫌い、秩父鉱山の本格的な採掘は昭和になるまで行われなかった。
 明和5年(1768年)に隠居するが、養子にしていた先代・喬求の次男の逵朝が早世していたため、家督は甥の永朝に譲った。安永4年(1775年)に死去。 

 寛政4年(1792年)閏2月23日、第2代藩主・秋元永朝の5男として生まれる。兄の修朝と知朝が相次いで早世したため世継とされ、文化4年(1807年)、従五位下・左衛門佐に叙位・任官する。文化7年(1810年)、父の死により家督を継いだ。文政6年(1823年)、但馬守に遷任する。天保10年(1839年)4月13日、甥で養子の志朝に家督を譲って隠居し、若狭守に遷任する。
 弘化3年(1846年)に大膳亮に遷任し、剃髪して休翁と号する。弘化4年(1847年)10月19日に死去した。享年56。 

秋元志朝 秋元礼朝

 文政3年(1820年)3月8日、周防徳山藩の第8代藩主・毛利広鎮の8男として生まれる。母が出羽山形藩の先々代藩主・秋元永朝の娘で、秋元氏と縁戚関係にあったことから、天保2年(1831年)に叔父にあたる第3代藩主・秋元久朝の養子となる。天保10年(1839年)4月13日、久朝の隠居により家督を継ぐ。
 弘化2年(1845年)11月30日、上野館林藩に移封される。安政2年(1855年)の安政の大地震を契機にして岡谷瑳磨介を登用して藩政改革を断行し、江戸詰の家臣の屋敷を館林に移して藩主権力の強化を図り、学問所である造士書院(求道院)を創設した。元治元年(1864年)7月、禁門の変が起こると、毛利家の出身だったため幕府から内通の嫌疑を受け、10月27日に養子の礼朝に家督を譲って強制的に隠居させられることとなった。
 しかし、その後も藩政の実権を握り、長州征伐では幕府・朝廷・毛利家の仲介役を務めている。明治9年(1876年)7月26日に死去した。享年57。

 嘉永元年(1848年)5月16日、遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の5男として生まれる。安政6年(1859年)に館林藩の初代藩主・秋元志朝の養子となり、元治元年(1864年)10月に養父が禁門の変により江戸幕府から隠居させられたため、家督を継いで第2代藩主となる。慶応2年(1866年)に奏者番に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、飛び地領の河内から新政府軍に対して兵を派遣し、軍資金2万両を出して協力した。その功により明治2年(1869年)に賞典禄1万石を加増された。
 明治2年(1869年)、版籍奉還により館林藩知事に任命されたが、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官。同年9月に隠居し、養子の興朝に家督を譲る。明治16年(1883年)6月13日に死去。享年36。

秋元興朝

 明治時代から大正時代の華族,外交官,貴族院議員。戸田忠至(宇都宮藩家老で、間瀬和三郎と称する)の次男。兄に戸田忠綱。
 明治4年(1871年)9月9日、旧館林藩主・秋元礼朝の養子となり、従五位に叙され、翌日に元服して興朝と名乗る。同年9月23日、養父・礼朝の隠居により、家督を継ぐ。明治16年(1883年)1月、外務省書記生としてフランスの在パリ公使館勤務となるが、間もなく職を辞し欧州各地を遊学した。明治18年12月に日本に帰った。この間、明治17年7月に子爵を授けられた。
 明治22年(1889年)10月、「北海道土地払下規則」により、三条実美を中心に興朝ら華族組合で、北海道庁の土地5万町歩の貸下げを申請し、華族組合雨竜農場を創設した。ただ、米式の大農場経営による開墾を行ったが、軌道に乗らず明治24年に三条が没すると求心力を失い明治26年解散。
 外務官僚として、明治25年(1892年)12月より弁理公使、明治28年3月には特命全権公使に昇進した。しかし、健康が優れず任地に赴かず職を辞し、明治33年(1900年)に伊藤博文の立憲政友会ができるとこれに加わって、東京支部長をつとめた。 明治42年(1909年)、貴族院内に「談話会」をつくり政友会の重鎮をなし、茶話会とともに貴族院内の有力会派になり、尚友会が伯爵界や子爵界に大きな影響力を持つ原動力となった。東洋商業学校の校長となった。東京駿河台の邸宅のほか、旧領地館林にも別邸を持ち、同地の城沼の新田開墾事業などにも尽力した。大正6年(1917年)に61歳で没する。娘・光子の婿の徳山藩主・毛利元功の3男・春朝が遺蹟を継いだ。
 明治35年(1902年)には、日下会を創設し相撲道の発展に寄与し、また常陸山の後援会「常陸山会」の会長もつとめた。