<藤原氏>北家 道兼流

F644:宇都宮宗円  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 中原宗房 F673:中原宗房


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中原宗房 野仲重房

 豊前宇都宮氏の祖とされる。系図類では中原宗房と宇都宮信房は親子とされているが、信房が資料等に登場するまでに約50年ほどの年代差があるため『吾妻鏡』では孫子としている。宗房には坂戸源氏の源季範の養子となった源季長、源季範の子である源季国に嫁いだ女子、下野宇都宮氏の宇都宮朝綱とほぼ同世代で宇都宮信房の父である名前不詳の男子といった3人の子がいた。
 中原氏出身で、外記,造酒正といった職を経た後、藤原璋子に仕えた。永久6年(1118年)に藤原璋子が立后され中宮を号した際に中宮大属に就任した。天治元年(1124年)に藤原璋子が院号を宣下されて待賢門院と称した際には、待賢門院庁の主典代に就任している。現存している待賢門院庁の文書の多くは宗房が起案したものだという。
 近江国善積庄に権益を保持していたが、平家政権時代にそれを失ったという。後に宇都宮信房が源頼朝により善積庄を与えられ回復している。
 豊前宇都宮氏は豊前国へ入部後、待賢門院璋子(藤原璋子)の法名である真如法から名前を取った真如寺と如法寺を建立しており、璋子へ感謝の気持ちを表したという。

 建久6年(1195年)、豊前国下毛郡野仲郷に入り、はじめ城井荘に尾屋敷城 (筑久江城)を築き、同9年、 津民荘に長岩城を築いて住し、その子孫が野仲を称した。 野仲氏からは、内尾,友枝,三尾母,野依 ,犬丸等の庶家が生まれという。しかし、伝存する史料に野仲氏が登場するのは、鎌倉時代後半の文永以降の史料で、その活動は断片的にしか知ることができない。 
野仲鎮兼

 弘治3年(1557年)、大内義長が毛利元就に滅ぼされると、野仲鎮兼は大友氏に反旗を翻して長岩城に籠城した。しかし、大友義鎮に攻められ降伏した。その後、薩摩の島津氏が勢力を拡大し、島津氏も逐われた伊東氏が大友宗麟を頼った。結果として日向は島津氏が支配するところとなり、事態を重くみた大友宗麟は天正6年(1578年)4月、日向へ攻め入った。大友氏は耳川の合戦に敗れ、隆盛を極めた大友氏には衰退の陰が大きく被うようになったのである。その後、豊前の諸氏は大友氏を離脱し、天正7年(1579年)、野仲鎮兼は軍を発し下毛郡を制圧した。
 天正10年(1582年)、織田信長が本能寺で横死し、信長の天下統一事業を受け継ぎ畿内,中国,四国を平定した豊臣秀吉は、九州制圧に乗り出しそれに抵抗した島津氏も秀吉に帰服した。その後、秀吉は新たな知行割りを行い、中津には黒田如水・長政父子が新領主として入部してきた。黒田如水・長政父子に対して、城井宇都宮氏は抵抗姿勢を示し、野仲鎮兼も宇都宮氏に加担したため、黒田氏に攻められ豊前の名門野仲氏も滅亡した。