<藤原氏>北家 秀郷流

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桐生綱元 桐生国綱

 桐生氏は藤原氏秀郷流足利氏の流れで、足利忠綱の弟・綱元を祖にするといわれる。桐生氏の系図は数種類のものが伝わっており、いずれもその出自を秀郷流藤原氏としていることは諸本一致している。それらの系図類は桧杓山城を築いた桐生国綱を中興とする「佐野氏流」と、正平4年/貞和5年(1349年)の利根川合戦において足利尊氏より軍忠状を賜った桐生又六郎入道行阿を中興とする「新居氏系図」に大別される。
 しかし、系図によって桐生氏の世代や名乗については区々多様である。たとえば、佐野氏流系図では、豊綱,親綱が佐野氏から養子に入ったことが記されているが、佐野系図にそれを裏付ける記述は見当たらない。系図類の記述を鵜呑みにはできないが、それぞれが何らかの歴史的真実性を伝えているようではある。
 ちなみに佐野氏流系図が祖とする綱元の父という足利俊綱、兄にあたる忠綱の父子は源頼朝に反した源義広の乱に与して没落しているが、その乱に綱元の存在は見いだせない。一方、系図集として信頼できる『尊卑分脉』にも綱元の名はないことなどから、桐生氏を秀郷流足利氏であるという説は検討の余地があるとされる。おそらく桐生氏は、足利俊綱・忠綱父子に仕えていながら、野木の宮の戦いに敗れた俊綱・忠綱父子を殺害、俊綱の首を鎌倉に持参したものの頼朝から不忠者として斬られた桐生六郎の子孫と考えるのが妥当なようだ。六郎はその存在を裏付ける記録も残っており、自らは頼朝に斬られたが、妻子郎従はおかまいなしと下文されているため、その子孫は桐生に住むことができた。しかし、主君を斬った人物を先祖とすることを嫌って、出自を秀郷流足利氏の分かれに粉飾したものと考えられる。  

 桐生氏の動向が明らかになるのは南北朝の内乱期で、正平5年/観応元年(1350年)、桧杓山に本城を築いたと伝えられる国綱からである。国綱は居城を定めると、円山の南麓より浅間山の西麓山まで水路を開いて、渡良瀬川と桐生川を結び要害堀として、桐生氏発展の基礎を築いた。そして、家臣の谷直綱に命じて高津戸城主・山田則之を滅ぼし、高津戸を支配下においた。
桐生正綱 桐生重綱
 「結城合戦」と呼ばれる争乱で、桐生氏は幕府方に加わり、桐生正綱の弟・正俊(在俊)が兵を率いて参陣した。永享12年(1440年)の穂積原の合戦に正俊は負傷し、一族郎党にも負傷者を出す活躍を示し、戦後、正綱は大将の上杉清方から感状を受けている。  桐生氏が急激に躍進をみせるのは、正綱から3代目の重綱の時代である。渡良瀬川上流の黒川山中・小倉鹿田までを領有するようになった重綱は、五蘭田城を攻め松崎左衛門を降し、娘婿として配下に加えた。この松崎左衛門は、永正7年(1510年)の権現山の戦いに重綱の名代として出陣して戦死した。ついで、重綱は園田成光を攻撃し小倉鹿田の地を奪ったが、成光を応援する横瀬国繁との戦いとなり桐生勢は敗れたようだ。重綱は永正12年(1515年)に行われた荒戸野の鷹狩りにおいて落馬し死去したという。 
桐生真綱 桐生助綱
 重綱のあとは真綱が継ぎ、真綱は古河公方足利政氏に属した。真綱の代になると、小田原を本拠とする新興の北条氏が勢力を拡大し、世の中は戦国時代の様相を濃くしていた。そのようななかの大永2年(1522年)、真綱は利根川の南、須賀の戦いにおいて讃岐六郎太郎を討ち取ったが、弟の新居三郎次郎が負傷している。

 天文元年(1531年)には仁田山赤萩地方を回復、さらに無位無官で浪人として諸国を放浪した有能な里見上総介入道勝弘(新田氏一族、実堯の末裔とする)を仁田山赤萩城の主として取り立てた。
 天文13年(1544年)、細川内膳と膳因幡守を打ち破り、桐生氏の勢力を拡大。ここに桐生氏は最盛期を迎えることになる。
 永禄3年(1560年)に越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東管領・上杉憲政を擁して関東に出馬してきた。助綱はこの陣に参じ、近衛前嗣,上杉憲政の警固にあたり、のちに京都に帰った前嗣から丁重な謝辞を贈られている。
 上州武家集団が、都の公家や元関東管領を十分にもてなすことができたという事実は、助綱の文武に長けた名将ぶりを伺わせる。しかし、助綱は永禄9年(1566年)頃に近隣の新田金山城主・由良成繁の勧めもあって古河公方・足利義氏方に転じた。
 永禄13年(1570年)5月に没する。享年59。

桐生親綱

 永禄13年(1570年)に養父である助綱が死去すると、親綱が桐生氏の家督を継いだ。親綱は古くからの重臣の谷右京や大屋勘解由左衛門などを無視して、実家である佐野氏からの後見役の荒井主税之助,茂木右馬之丞,山越出羽守,津府子形部の4人に仕置を任せ、これまでの桐生氏の諸法度を廃止し、新法を行って暴政を領内に敷いたため、将士民心は離反した。
 これに桐生氏の行く末を危惧した執事(家老)の里見上総介入道勝弘らが親綱に諫言するが、逆に恨まれて自害を申し付けられた。
 新田太田の由良氏と、渡良瀬・桐生川の水利を巡って対立を深める。元亀3年(1572年)3月、に由良氏の家臣・藤生善久が居城の柄杓山城を攻撃。 城は陥落し、親綱は実家の佐野に逃亡し、ここに戦国大名としての桐生氏は滅亡する。滅亡した桐生一族の一部は、薮塚滝入地区に移り住んだといわれ、現在でも多くの桐生姓が存する。
 天正6年(1578年)に由良成繁が没すると桐生城下に忍び込み、桐生城の奪還を画策するが応ずるものはいなかった。