藤姓足利氏は下野国足利荘を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称された。 安楽寿院領足利荘の立券は開発領主である藤姓足利氏と、院北面として中央に人脈を有する源義国一族との連携によるものであり、藤姓足利氏が現地を管理する下司、義国流源氏は上位の預所として利益を分配していたと見られる。俊綱も当初は源氏と協力関係にあり、保元の乱では下野国から八田知家と並んで源義朝配下として参戦している。しかし、新田義重が金剛心院領新田荘の下司に任じられて在地への関与を強めると、藤姓足利氏と義国流は競合することになる。仁安年間(1166~69年)、俊綱はある女性を凶害したことで足利荘領主職を得替となり、平重盛が新田義重に足利荘を賜うという事態となった。俊綱の愁訴により足利荘改替は何とか回避されるが、新田氏との対立は決定的となった。 俊綱は権益保持のため、重盛の家人で同じ秀郷流藤原氏の伊藤忠清に接近したと推測される。治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では、俊綱の嫡子・忠綱が忠清の軍に加わり宇治川を先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを願い出た。しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった。藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。なお、藤姓足利氏は終始平氏政権側だったするのが一般的な解釈であるが、平氏に対する恩賞の不満から一時的に頼朝に帰順したとする見解もある。 寿永2年(1183年)2月、忠綱は志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、上野国山上郷龍奥に籠もった。同年9月、頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連,葛西清重,宇佐美実政と共に下野国に下った。俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害された。頼朝は桐生六郎を「譜第の主人を誅すこと、造意の企て尤も不当なり」として斬首した。俊綱の遺領は没収され、足利荘は足利義兼が一元的に管理することになるが、俊綱の子息兄弟や郎従眷属でも帰順した者には処罰を禁じ、妻子らの本宅や資財も安堵した。藤姓足利氏の嫡流は途絶えるが、一門の多くは御家人として存続し鎌倉政権に組み込まれることになる。
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忠綱が産まれた頃、藤姓足利氏は新田義重や足利義康により所領を大きく失っており、また久寿2年(1155年)の大蔵合戦によって、同盟であった秩父重綱や源義賢が源義平,新田義重に滅ぼされ、藤原足利氏を取り巻く環境は過酷な時代にあった。『吾妻鏡』によると、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏が受けなかったことを恥辱として平氏方に加わったという。忠綱は17歳であったというが一門を率いて上洛し、平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。宇治川の戦いでは、敵大将の源頼政が奈良に向おうと平等院を発とうとしたところ、大雨によって宇治川が荒れ果てており、そこに藤原忠清の軍勢が到着する。平家軍は川を迂回して平等院に渡るか、河内に向かって奈良への進行を阻止すべきか口論となったところ、忠綱が進み出て、足利一族を率い先陣で渡河し、見事平等院に討ち入る大功を立てた。またその一方で、先祖の藤原秀郷より伝来し、祖父・家綱や父・俊綱より授かった大鎧「避来矢」を戦場で見失い慌てふためいたという話や、敵軍が鎧を盗もうとしたが重すぎて持てなかった、といったような伝承が残っており、忠綱が避来矢を大事にしていたことや、初陣で緊張していたかが伝わってくる。 忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを平清盛に願い出た。しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった。巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる。藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。忠綱は恩賞の不満からか東国に戻り、一時的に源頼朝に帰順していた形跡が見受けられる。 その後、養和元年(1181年)になると現地で競合する足利義兼,新田義重が頼朝に帰順し、一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、佐位七郎弘助,那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど結束が崩れ、藤姓足利氏を取り巻く情勢は厳しいものとなっていった。 『吾妻鏡』は、忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。 寿永2年(1183年)2月、常陸国の志田義広が頼朝を討つべく、鎌倉に向けて兵を挙げる。義広は頼朝とは親戚の関係にあったが、親子同然のように仲が良かった兄・源義賢を源義平に殺害されており、源義平の弟である頼朝とは相いれない関係だった。そんな志田義広と利害が一致したのか、あるいは大蔵合戦での出来事に思うところがあったのか、忠綱は真っ先に呼応し源頼朝からの離反を決める。次に、義広は忠綱と同族の小山氏を誘うが、小山朝政は味方すると返事をしつつも騙し討ちを行い、下野国野木宮で合戦となる(3月18日)。そこには忠綱の叔父・戸矢子有綱や佐野基綱の他、ずっと行動を共にしてきた小野寺道綱などの姿もあった。恩賞撤回騒動以降、戸矢子有綱や佐野基綱を始めとする藤姓足利氏支流と忠綱は関係が悪かった。小野寺道綱こそ良好な関係であったが、戸矢子有綱の娘婿となっており、宗家からやむを得ず離反したと思われる。合戦は突如行われたため、俊綱・忠綱親子は戦いには間に合わず、志田義広は敗走し、忠綱もまた戦わずして敗北することとなった。 敗北した忠綱は上野国の山上郷龍奥に籠もったというが、その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いたと『吾妻鏡』に書かれている。父・俊綱は頼朝による追討が出ると、家人であった桐生六郎に裏切られて殺害され、藤姓足利氏の宗家は滅亡した。桐生六郎は頼朝に「譜代の主君を討つとは不届き」として処刑された。藤姓足利氏に対して帰順を条件に、妻子含め本宅資材の安堵を約束し、一部所領が返還された。また、忠綱の祖父・家綱も生き残った。忠綱は足利市の福巌寺を創立し、俊綱の供養を行ったという。 その後の忠綱は、頼朝の勅勘により九州で謹慎処分となった後、源姓足利氏の足利義兼の家人となったという。実際、足利市鑁阿寺などに伝わっている伝承がある。建久7年(1196年)、鑁阿寺に屋敷を構える足利義兼が鎌倉へ滞在中、忠綱が鑁阿寺で留守を預かっていたが、足利義兼の妻・北条時子が妊娠したように腹部がふくれてしまった。北条時子の侍女の藤野が、忠綱が不義密通を行ったに違いないと足利義兼に伝え、忠綱に追手がかかってしまう。忠綱には身に覚えのない事だった。実は、藤野は忠綱に振られた腹いせに虚偽の報告を行ったという。その後、北条時子は身の潔白を証明するために自害し、腹からは大量の蛭が見つかった。怒った足利義兼は、藤野を牛裂きの刑に処したと伝えられている。実際に鑁阿寺には現在も北条時子の供養塔や蛭の原因となったという井戸が残されており、伝承に過ぎないといえど、非常に多くの遺跡が残されている。 また、忠綱は鑁阿寺を抜け出す際、天満宮に無実が晴れるようにと祈願を行った後、鞍もついてない馬に乗り逃亡したといい、祈願の時に鞭代わりの藤の枝を地面に差したまま忘れていった。するとその藤の枝は芽吹き、立派な大木となったことから、今でもその天満宮は逆さ藤天神と呼ばれている。無実の罪を疑われ天満宮に祈願を行うというのは、奇しくも、祖父足利家綱が辿った境遇、行動共に全く同じであった。さらに追手から逃げる際に落馬したという馬打峠や、忠綱が追手に捕まり討たれたという上野国の皆沢八幡宮など、伝承は多岐に渡る。皆沢八幡宮は忠綱を祭神としており、皆沢に身を隠していた忠綱は、白犬が吠えたために見つかり討たれたという伝承が残る。この事件で本当に亡くなったかどうかは定かではないが、いずれにせよ忠綱は行方不明となり、藤姓足利氏宗家は歴史の表舞台からは消えた。 忠綱を語るにあたり、もうひとつ重要な伝承が残されている。愛媛県西予市宇和町には歯長城という城があり、治承年間(1177~1181)の間に足利又太郎忠綱が築城したと『宇和旧記』『愛媛面影』『予陽塵芥集』などに記述がある。これらは江戸時代の書物であり、確実な証拠には至らないが、『吾妻鏡』に野木宮合戦の後、西海へ赴いたという記述と合致する。また、歯長城以外にも周囲には歯長寺,歯長峠,高智神社など、忠綱の伝承が伝わる史跡が数多く残されている。 史跡のひとつの歯長寺では、歯長城で亡くなった忠綱の遺体を埋葬したと伝わっており、墓が残されている。元応年間に開山の理玉和尚が忠綱の守り本尊である千手観音像を掘り当てたことや、明治20年代、山門改築時に忠綱墓たる円墳を改めた際、大瓶の棺より頭骸・下顎・歯・大腿・下肢・骨出が現れ、巨人の骨格だったという伝承が伝わっている。なお、この歯長寺および忠綱の墓は元々歯長城のそばにあったが、昭和35年焼失し昭和42年に移設されており、現在元々の歯長寺の場所には送迎庵見送り大師という名のお堂が建っている。 頼朝に従い平氏を滅亡させた後は、鎌倉幕府に下り足利義兼の家人となるが、不義密通の疑いにより逃亡、愛媛県西予市宇和町の歯長城に隠れ住んだと考えられる(この場合、皆沢八幡宮で亡くなったのは、忠綱の身代わりとなった家人と仮定する)。 忠綱が大切にしていた避来矢は、経緯は不明だが佐野基綱(一時的に宗家滅亡後、足利氏を名乗っていた)の手に渡り、以降、代々佐野氏が管理していく。江戸時代に火災にあり一部を残して消失してしまうが、焼け残った部分は佐野市の唐沢山神社に国宝として保管されている。 忠綱の妻子に関する正確な資料は残されていないが、下野小野寺氏(川崎小野寺氏)に代々伝わる文書の系図によると、小野寺道業の側室は忠綱の娘と記載されている。また、子に忠広なる人物がいたとも。
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