<藤原氏>北家 秀郷流

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長沼宗政 皆川宗員

 応保2年(1162年)、下野国の有力豪族・小山政光の次男として誕生。治承4年(1180年)10月、源頼朝が富士川の合戦以降、地歩を固めると、宗政もこれに従った。寿永2年(1183年)、志田義広を討った(野木宮合戦)。同年、兄・小山朝政,弟・結城朝光と同時期に下野国長沼荘の所領を与えられたと推測されている。
 元暦元年(1184年)1月、源義仲が討死した後、平家追討では源範頼軍に加わっている。約半年後、朝政,朝光とともに再び平家追討の軍に加わった。文治元年(1185年)1月6日付で、頼朝から範頼に宛てた書状には、「小山の者ども、いづれをも殊に糸惜しく給ふべし。あなかしこ、あなかしこ」と記されている。
 文治5年(1189年)7月、頼朝の奥州合戦に従軍。奥州藤原氏の滅亡後、恩賞地として陸奥国南会津南山を与えられた。信濃国善光寺地頭職を与えられたが、承元4年(1210年)8月に改替。正治2年(1200年)11月、美濃国大榑荘の地頭職を得た。その後、建仁3年(1203年)の比企能員の変、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱に北条氏方として従っている。建暦3年(1213年)9月、畠山重忠の末子で日光に住む重慶が謀反を企てるとの報が届くと、将軍・源実朝は宗政に生け捕りを命じるが、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し、宗政の出仕を止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」「当代は、蹴鞠を以って業と為し、武芸は廃るるに似たり、女性を以って宗と為し、勇士はこれなきごとし。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う」と述べた。閏9月16日、兄・朝政の取り成しにより実朝は宗政を許した。
 承久3年(1221年)の承久の乱にも従軍した。乱の収束後、同年6月25日、摂津国守護職および同国藍荘の地頭職に補任された。さらに同年7月20日付で淡路国守護職および同国笑原保・上田保の地頭職に補任された。淡路国守護職は鎌倉時代末期まで長沼氏に相伝され、貞応2年(1223年)には淡路の大田文まで作成された。
 寛喜2年(1230年)8月13日、嫡子・時宗に家督を譲る。時宗に示した譲状には、下野国長沼庄(芳賀郡),同国小薬郷・同国御厩別当職,淡路国守護職,同国地頭職ならびに京・鎌倉の屋敷等と記されている。
 仁治元年(1240年)11月19日に下野長沼荘で死去。享年79。現在の神奈川県横浜市栄区長沼町には、かつて判官台と呼ばれた谷戸があり、宗政が鎌倉出仕のおりの居館趾とされる。その居館趾にある臨済宗の正安寺の開基は宗政であると伝えられている。
『吾妻鏡』に人物像は、些細なことでしばしば激昂するとても気性の荒い人物であったと伝えられており、問題発言も度々発したとされ、「荒言悪口の者」と評されている。

 第一次皆川氏は長沼時宗の子・宗員が、寛喜年間に下野国皆川荘に拠点を構えたところに始まり、続くこと6代にして、宗常が元亨3年(1323年)に鎌倉幕府執権・北条高時に背いて自害し、所領を没収されて断絶した。その後、長沼氏秀の代から皆川に本拠を定め、氏秀の子・宗成が皆川氏を称し、この宗成が戦国大名・皆川氏の初代に数えられている(第二次皆川氏とされる)。