| FU22:長沼宗政 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 藤原兼光 ― 小山政光 ― 長沼宗政 ― 長沼宗泰 | FU23:長沼宗泰 | ● |

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| 皆川宗成 | 皆川成勝 |
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長沼時宗の子・宗員が、寛喜年間に下野国皆川荘に拠点を構えたところに始まり、続くこと6代にして、宗常が元亨3年(1323年)に鎌倉幕府執権・北条高時に背いて自害し断絶した(第一次皆川氏)。その後、長沼氏秀の代から皆川荘に本拠を定めた氏秀の子の宗成が皆川氏を称するようになる(第二次皆川氏)。宗成の誕生年は不詳だが16世紀以前だとされている。4人の弟達とともに皆川氏の勢力を拡大した。永正の乱では近隣の佐野氏に同調し足利政氏支持の筆頭である小山成長に味方し、足利高基支持の筆頭である宇都宮成綱と敵対した。 |
永正年間に皆川宗成の嫡男として誕生。大永3年(1523年)に河原田合戦で父が戦死したことで成勝は皆川氏の次代の当主となった。成勝の代になると、皆川氏は宇都宮氏に臣従している。また、嫡男の俊宗の烏帽子親に宇都宮俊綱を選んでいる。成勝がこういった動きに出た理由の1つとして近隣に位置する宇都宮氏の一族・壬生氏の勢力が増大したことに対抗するために壬生氏を従えている宇都宮氏に臣従することでその脅威から身を守ろうとしたのだという。 |
| 皆川俊宗 | 皆川広照 |
| 宇都宮俊綱から一字を得て「俊宗」と名乗る。天文年間に家督を継承、北条氏康と結んで自立を図って宇都宮広綱と争うが、敗れて屈服した。後に宇都宮家中での発言力を伸ばし、同家中にて実権を握っていたとされていた芳賀高継を凌ぐ力を有していたとする説もある。また、元亀3年(1570年)には主君・広綱の病気に乗じて宇都宮城を占領して重臣の岡本宗慶を殺害した上で、那須氏や北条氏と結んで家中の実権を掌握している。晩年は広勝に家督を譲って心鉄と号する。結城晴朝とともに北条氏康に攻められた関宿城の簗田晴助父子の救援に赴いて戦死したとされるが、実際には俊宗が死亡したとされる天正元年9月頃に皆川氏が壬生氏とともに宇都宮氏に叛旗を翻して宇都宮氏を支援する小山氏の粟志川城を攻めていたことが確認されており、この時に戦死したとみられている。 |
山上宗二が関東へ下っていた際に秘伝書である『山上宗二記』を託された1人であることから茶道に造詣が深かった人物と推測される。 |
| 皆川隆庸 | 皆川広隆 |
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徳川氏に仕え、慶長5年(1600年)、徳川家康が大坂から反抗的な上杉景勝の討伐に向かった際には、父の皆川広照とともに大田原城に派遣され、徳川方の大田原晴清,大関資増に加勢した。その後、下館城主の水谷勝俊らとともに上杉方の佐竹義宣に備えるために鍋掛村に駐屯した。同年の関ヶ原の戦いでは父・広照は鍋掛村に駐屯したままだったが、隆庸は徳川秀忠軍に属し、同年8月24日には宇都宮を出陣している。 |
明暦3年(1657年)、父が没し家督を継ぐ。元禄10年(1697年)頃に領内の常陸国行方郡中根村,繁昌村,吉川村の広大な田(30余町歩余)の水不足解消のため灌漑用水事業を行った。水不足が無くなり、舟の通行をできる運河を造成したため、善行としてたたえられ皆川堀と呼ばれた。元禄11年(1698年)領地を遠江国豊田郡,山名郡,周智郡内に移された。元禄14年(1702年)に家督を嫡男・皆川広逵に譲り、隠居し説翁と号した。宝永7年(1710年)、63歳で没した。 |