<藤原氏>北家 秀郷流

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皆川宗成 皆川成勝

 長沼時宗の子・宗員が、寛喜年間に下野国皆川荘に拠点を構えたところに始まり、続くこと6代にして、宗常が元亨3年(1323年)に鎌倉幕府執権・北条高時に背いて自害し断絶した(第一次皆川氏)。その後、長沼氏秀の代から皆川荘に本拠を定めた氏秀の子の宗成が皆川氏を称するようになる(第二次皆川氏)。宗成の誕生年は不詳だが16世紀以前だとされている。4人の弟達とともに皆川氏の勢力を拡大した。永正の乱では近隣の佐野氏に同調し足利政氏支持の筆頭である小山成長に味方し、足利高基支持の筆頭である宇都宮成綱と敵対した。
 大永3年(1523年)11月、宗成は侵攻してきた宇都宮忠綱の軍勢と戦い討死した(河原田合戦)。弟の平川成明も戦死するなど大打撃を受けたが、援軍として駆けつけた小山氏・結城氏の奮闘の末、宇都宮勢を撃退することに成功している。合戦となった場所は、合戦場という地名として現在も残っている。 

 永正年間に皆川宗成の嫡男として誕生。大永3年(1523年)に河原田合戦で父が戦死したことで成勝は皆川氏の次代の当主となった。成勝の代になると、皆川氏は宇都宮氏に臣従している。また、嫡男の俊宗の烏帽子親に宇都宮俊綱を選んでいる。成勝がこういった動きに出た理由の1つとして近隣に位置する宇都宮氏の一族・壬生氏の勢力が増大したことに対抗するために壬生氏を従えている宇都宮氏に臣従することでその脅威から身を守ろうとしたのだという。
 天文年間に天文の内訌が起こり、宇都宮俊綱と重臣の芳賀高経が対立すると、成勝は従兄弟の富田忠宗(富田城主)とともに高経を味方し宇都宮氏と敵対した。内訌後は再び宇都宮氏に臣従し、壬生綱雄が宇都宮俊綱と敵対した際は今度は俊綱に味方し、富田忠宗や宇都宮一門の西方氏とともに壬生氏を攻撃した。
 天文20年(1551年)に没した。都賀郡深沢にある建幢寺が菩提寺であるという。 

皆川俊宗 皆川広照
宇都宮俊綱から一字を得て「俊宗」と名乗る。天文年間に家督を継承、北条氏康と結んで自立を図って宇都宮広綱と争うが、敗れて屈服した。後に宇都宮家中での発言力を伸ばし、同家中にて実権を握っていたとされていた芳賀高継を凌ぐ力を有していたとする説もある。また、元亀3年(1570年)には主君・広綱の病気に乗じて宇都宮城を占領して重臣の岡本宗慶を殺害した上で、那須氏や北条氏と結んで家中の実権を掌握している。晩年は広勝に家督を譲って心鉄と号する。結城晴朝とともに北条氏康に攻められた関宿城の簗田晴助父子の救援に赴いて戦死したとされるが、実際には俊宗が死亡したとされる天正元年9月頃に皆川氏が壬生氏とともに宇都宮氏に叛旗を翻して宇都宮氏を支援する小山氏の粟志川城を攻めていたことが確認されており、この時に戦死したとみられている。 

山上宗二が関東へ下っていた際に秘伝書である『山上宗二記』を託された1人であることから茶道に造詣が深かった人物と推測される。
天正4年(1576年)に兄・広勝が29歳で急死したことから家督を継いだ。はじめ宇都宮氏に仕えた。処世術に優れ、天正9年(1581年)には織田信長に名馬を送って誼を通じ、翌天正10年(1582年)に関東に赴任した信長の家臣・滝川一益に仕えた。信長の死後は羽柴秀吉や徳川家康らと通じた。天正14年(1586年)、後北条氏の侵攻を受けて降伏し、その家臣となる。
天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐の時、家康に投降して所領を安堵された。
慶長6年(1601年)正月、従四位下に叙位された。飯山藩主(4万石)の時、幼少期より養育していた家康の6男・松平忠輝の守役・御附家老となって忠輝の補佐役を務めたが、慶長14年(1609年)いくら諫言しても改めない忠輝の行状を幕府に訴えたところ、逆に家老として不適格と言われ改易されてしまった。しかし、元和9年(1623年)に赦免され、常陸府中で1万石を与えられた。
 寛永2年(1625年)に嫡男の隆庸に家督を譲って隠居し、2年後に80歳で没した。 

皆川隆庸 皆川広隆

徳川氏に仕え、慶長5年(1600年)、徳川家康が大坂から反抗的な上杉景勝の討伐に向かった際には、父の皆川広照とともに大田原城に派遣され、徳川方の大田原晴清,大関資増に加勢した。その後、下館城主の水谷勝俊らとともに上杉方の佐竹義宣に備えるために鍋掛村に駐屯した。同年の関ヶ原の戦いでは父・広照は鍋掛村に駐屯したままだったが、隆庸は徳川秀忠軍に属し、同年8月24日には宇都宮を出陣している。
慶長14年(1609年)10月27日、松平忠輝と対立したことが原因で父・広照と共に改易された。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では井伊直孝隊に属した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも引き続き井伊直孝隊に属し、5月6日に大坂城南部の若江で木村重成の軍勢と衝突。井伊勢は大損害をこうむったが、重成の軍勢を壊滅させることに成功し、隆庸は敵方の首級を得るなど功を挙げた。この時、隆庸の従者達も敵方の首級を得ている(若江の戦い)。5月7日には井伊直孝隊は徳川秀忠軍に属し大坂城下の岡山で大野治房の軍勢と戦っている。治房の軍勢は秀忠の軍勢の先鋒を破り、秀忠の本陣に迫ったが、隆庸が属する井伊直孝隊の奮闘よって撃退に成功している。その時の隆庸の活躍は『寛政重修諸家譜』の『皆川系図』に「七日味方少しやぶるるといえども、隆庸その場を退かず」と記されている。
それらの功績によって元和9年(1623年)、父と共に赦免され、常陸行方郡に5,000石の所領を与えられて徳川家光に仕えた。寛永2年(1625年)、父の隠居によりその所領1万石も継ぎ、合計1万5,000石を領する大名となった。このとき、弟の宗富に1,700石を分与している。
寛永8年(1631年)、4,000石を新たに近江浅井郡内で与えられ、合計1万8,000石を領する大名となった。正保2年(1645年)3月2日、死去。享年65。

 明暦3年(1657年)、父が没し家督を継ぐ。元禄10年(1697年)頃に領内の常陸国行方郡中根村,繁昌村,吉川村の広大な田(30余町歩余)の水不足解消のため灌漑用水事業を行った。水不足が無くなり、舟の通行をできる運河を造成したため、善行としてたたえられ皆川堀と呼ばれた。元禄11年(1698年)領地を遠江国豊田郡,山名郡,周智郡内に移された。元禄14年(1702年)に家督を嫡男・皆川広逵に譲り、隠居し説翁と号した。宝永7年(1710年)、63歳で没した。