清和源氏

G113:源 頼政  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 仲政 ― 源 頼政 ― 大河内顕綱 G125:大河内顕綱



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大河内顕綱 大河内貞綱
 治承4年(1180年)、以仁王の乱で祖父・源頼政と父・源兼綱を討たれた源顕綱は母と共に三河国額田郡大河内郷に落ちた。後に足利義氏が承久3年(1221年)の戦功により鎌倉幕府の命で守護職として三河国に入った。顕綱は年下の足利義氏の傘下に家臣として入った。この源顕綱が初代の大河内顕綱である。 

 大河内氏は、南北朝時代から吉良氏の領地であった引馬荘の代官として派遣され、徐々に勢力を伸ばしていった。
 遠江を巡る斯波氏と今川氏が直接戦闘を交えるようになり、文亀元年(1501年)3月の戦いでは、貞綱は斯波方の堀江下野守に味方して黒山城に立て篭もるが、7月中に落城、貞綱は逃亡し引馬荘代官職は親今川の飯尾賢連が起用された。その後、遠江の情勢を見て吉良氏は今川寄りとなり、今川氏親の三河侵攻にも協力するようになったが、根拠地を追われた貞綱は斯波氏と結び、あくまでも今川氏に抵抗する。
 永正8年(1511年)10月、斯波義達は自ら遠江に出陣、三岳城を根拠に井伊直宗や貞綱と連合して攻勢に出る。信濃・三河・尾張の兵を率いた貞綱は翌年閏4月に引馬城を占拠、次いで堀江城を攻めるが失敗し、逆に朝比奈泰煕に攻められ、永正10年(1513年)3月7日に降伏、吉良氏の助命嘆願により死は免れる。義達の本隊も敗れ尾張へ退却、井伊氏も今川氏に屈服した。
 永正12年(1515年)、今川氏親が武田氏の内紛に介入し、甲斐に侵攻したのを好機ととらえた貞綱は翌永正13年(1516年)3月、三度挙兵し引馬城を占拠する。斯波義達も尾張から駆けつけ合流、引馬城に篭城する。これに対し氏親は永正14年(1517年)に武田信虎と和議を結ぶと、遠江に出陣し6月から引馬城攻撃を開始する。貞綱らは城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかったが、安倍金山の金掘り衆によって城中の井戸の水源を抜かれたため力尽きた。8月19日、引馬城は陥落、貞綱と弟の巨海道綱は自害した。

於富の方 大河内秀綱

 はじめ三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生む。ところが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている(なお、於富の方と松平清康との再婚はなかったとの説もある)。清康の死後は、星野秋国,菅沼定望,川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。
 その後、駿河国の今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗る。松平竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質として駿府に送られると、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたった。
 永禄3年(1560年)、死去。華陽院の墓は静岡市葵区鷹匠2丁目24番18号の玉桂山華陽院にある。この寺は元、知源院とよばれていたものを華陽院の法名により改めたものであり、境内には華陽院の墓のほか、3歳で没した家康の5女・市姫の墓もある。豊橋市の龍拈寺と刈谷市の楞厳寺には、華陽院の肖像画が現存している。

 はじめ吉良義昭に仕え、永禄7年(1564年)の三河一向一揆における東条城の戦いなどで戦功をあげる。義昭の没落後、徳川家康に仕え、三河・遠江の租税に関わる事務に携わり、遠江稗原(静岡県磐田市)を領する。家康の関東移封に従い、武蔵国高麗郡で700石余を領し、代官として活躍。晩年は剃髪し、休心と号した。元和4年(1618年)9月13日没。享年73。墓は愛知県西尾市寺津町金剛院及び埼玉県新座市の平林寺にある。
大河内久綱 大河内重綱

 元亀元年(1570年)、徳川氏の家臣・大河内秀綱の子として三河国にて誕生。慶長15年(1610年)10月に家康へ仕官する。元和4年(1618年)9月13日には父・秀綱が死去すると家督を相続(武蔵国高麗郡710石)する。久綱は代官・勘定奉行として活躍した。関東地方の幕府直轄領の年貢に関する実務を扱い、寛永15年(1638年)に職を退いた。
 江戸時代後期に編纂された系譜集『干城録』には、逸話が記されている。子の松平信綱の所には、老中という職業柄多くの進物が届いていたが、それを父にふるまっていた。久綱は、その進物を少しずつ換金しており、あるとき貯まった貯金で具足を調えて信綱に返したので、信綱が大変驚いたという。 

 大河内宗家14代。石高は715石。叔父に同姓同名の大河内重綱(長兵衛)がいる。 元和元年(1615年)に酒井親炮の長男として生まれる。母は松平信綱の姉であり、親炮に嫁いだが妊娠中に夫が死去したため実家に戻って重綱を産んだ。母はその後、旗本・天野長信に嫁いだため、重綱は祖父・大河内久綱の養子となる。
 寛永3年(1626年)に初めて将軍・家光に御目見する。寛永10年(1633年)、小姓組番士となる。正保3年(1646年)4月に養父が死去し、松平信綱の願いにより12月9日に家督を相続する。寛文11年(1671年)5月20日に死去した。享年57。