| G113:源 頼政 | 源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 仲政 ― 源 頼政 ― 大河内顕綱 | G125:大河内顕綱 | ● |


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| 大河内顕綱 | 大河内貞綱 |
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| 治承4年(1180年)、以仁王の乱で祖父・源頼政と父・源兼綱を討たれた源顕綱は母と共に三河国額田郡大河内郷に落ちた。後に足利義氏が承久3年(1221年)の戦功により鎌倉幕府の命で守護職として三河国に入った。顕綱は年下の足利義氏の傘下に家臣として入った。この源顕綱が初代の大河内顕綱である。 |
大河内氏は、南北朝時代から吉良氏の領地であった引馬荘の代官として派遣され、徐々に勢力を伸ばしていった。 |
| 於富の方 | 大河内秀綱 |
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はじめ三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生む。ところが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている(なお、於富の方と松平清康との再婚はなかったとの説もある)。清康の死後は、星野秋国,菅沼定望,川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。 |
はじめ吉良義昭に仕え、永禄7年(1564年)の三河一向一揆における東条城の戦いなどで戦功をあげる。義昭の没落後、徳川家康に仕え、三河・遠江の租税に関わる事務に携わり、遠江稗原(静岡県磐田市)を領する。家康の関東移封に従い、武蔵国高麗郡で700石余を領し、代官として活躍。晩年は剃髪し、休心と号した。元和4年(1618年)9月13日没。享年73。墓は愛知県西尾市寺津町金剛院及び埼玉県新座市の平林寺にある。 |
| 大河内久綱 | 大河内重綱 |
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元亀元年(1570年)、徳川氏の家臣・大河内秀綱の子として三河国にて誕生。慶長15年(1610年)10月に家康へ仕官する。元和4年(1618年)9月13日には父・秀綱が死去すると家督を相続(武蔵国高麗郡710石)する。久綱は代官・勘定奉行として活躍した。関東地方の幕府直轄領の年貢に関する実務を扱い、寛永15年(1638年)に職を退いた。 |
大河内宗家14代。石高は715石。叔父に同姓同名の大河内重綱(長兵衛)がいる。 元和元年(1615年)に酒井親炮の長男として生まれる。母は松平信綱の姉であり、親炮に嫁いだが妊娠中に夫が死去したため実家に戻って重綱を産んだ。母はその後、旗本・天野長信に嫁いだため、重綱は祖父・大河内久綱の養子となる。 |