清和源氏

G202:源 義朝  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義朝 ― 和賀忠頼 G203:和賀忠頼

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和賀忠頼 和田義忠

 和賀氏は、嫡系の後裔とされる仙台藩士・和賀氏の伝承によると、源頼朝の庶子・忠頼から始まるとされる。すなわち、頼朝が配流中の伊豆国にいたとき、伊東祐親の女との間に生まれたのが忠頼という。忠頼が3歳のとき、祐親は平氏を恐れて家臣の斎藤兄弟に命じて忠頼を棄てるように命じたが、斎藤兄弟は忠頼を相模国曽我に匿い、春若丸と称したという。
 建久8年(1197年)、頼朝は春若丸を奥州南部和賀郡に封じ、多田式部大輔忠頼(頼忠とも)と改めさせた。以後、代々「和賀ノ御所」と称せられたとされる。しかし、和賀氏の出自には異説も多く、頼朝子説はにわかには信じられない。このほか、多田行国の子・行義が和賀を称したとする説、武蔵七党の横山党中条氏の一族に始まるとする説がある。
 『吾妻鏡』の建長8年(1256年)の条に和賀氏の名がみえる。和賀三郎兵衛尉と和賀五郎右衛門尉の二人で、これは建長年間より以前に和賀氏が存在していたことを示している。和賀氏が鎌倉初期に発祥したということは間違いないと考えられている。

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、所領没収,居城追放処分となったが、浅野長政の奥州仕置軍が撤退すると、和賀氏の残党を率いて和賀・稗貫一揆を起こし、二子城を奪取した。
 翌年の天正19年(1591年)、蒲生氏郷軍が進行し、義忠は逃走の途次、落ち武者狩りに遭い殺害された。それを恨んだ子・和賀忠親は岩崎一揆を起こすこととなる。