清和源氏

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源 義朝 源 義平

 少年期に都から東国へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。丸氏,安西氏や坂東平氏の一部(三浦氏,上総氏,千葉氏など)からも連携して庇護された。義朝の東国下向については、近年では為義から廃嫡された結果とする説もある。東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明,大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収め、それまでの居館があった鎌倉郡沼浜から高祖父の頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館(亀谷殿)を移した。義朝の勢力伸張は、下野国足利郡足利に本拠を置く大叔父である義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり対立を生んだが、その後、同盟を締び盟友となることで解消され、義国の嫡男・義康と相婿となるなど連携を強めた。20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになり、中央進出への足掛かりを掴んだ。
 長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、久安3年(1147年)に正室の由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝を設けた。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、仁平3年(1153年)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。河内源氏の受領就任は祖父義親以来50年ぶりであり、義朝は検非違使に過ぎなかった父・為義の立場を超越することになった。この急激な抜擢は、寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を後ろ盾とする為義らとの対立を意味していた。
 久寿2年(1155年)には、為義の意向を受けて東国に下向していた次弟の義賢を義平に討たせ(大蔵合戦)、対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた。この後、義賢の復仇のため信濃国に下ってきた四弟の頼賢と合戦になりかけるなど、為義との対立は修復不可能な事態となった。大蔵合戦は都では問題にされておらず、その背景には武蔵守であった藤原信頼の黙認があり、摂関家に属する為義派への抑圧があったとも見られている。
 保元元年(1156年)7月の保元の乱では崇徳院方についた父・為義、弟の頼賢,為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣した。乱は後白河天皇方が勝利し、敗者となった為義は義朝の元に出頭した。義朝が自身の戦功に替えて父の助命を訴えたが、信西によって却下され、父や幼い弟達を斬ることになる。7月30日、義朝は船岡山村の辺りで為義と弟らを処刑した。乱後、恩賞として右馬権頭に任じられることになったが、不足を申し立てたため左馬頭となった。
 平治元年12月9日(1160年1月19日)、義朝は、源光保,季実,重成らと共に藤原信頼と組んで、後白河院の信任厚い信西らがいると目された三条殿を襲撃した。信頼に従った武士達は義朝のみではなく、独立して各権門に仕えるそれぞれの武家が自分の意志で信頼に与したのであって、義朝の指示で信頼方についたわけではない。信西襲撃の原因は、源氏と平家の因縁説や信西への冷遇怨恨説など通俗的なものではなく、実際には後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派共に反信西グループがいたこと、それらを後白河院がまとめきれなかったことにあるとされる。
 信西を倒してのち、信頼が政局の中心に立つが、今度は共に戦った二条天皇親政派との反目が発生した。離洛していた平清盛は信頼に臣従する素振りを見せて都に戻るがその後、二条天皇が清盛の六波羅邸に脱出し、形勢不利を察した後白河院も仁和寺に脱出した。この段階で義朝は全ての梯子を外された形となった。清盛は官軍の地位を獲得し、一転賊軍となった藤原信頼,義朝らは討伐の対象となり、ついに12月27日(2月6日)に京中で戦闘が開始される。平家らに兵数で大幅に劣っていた義朝軍は壊滅した。
 その後、信頼を見捨てた義朝は子の義平,朝長,頼朝、大叔父の義隆,平賀義信,源重成,家臣で乳兄弟の鎌田政清,斎藤実盛,渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上で度重なる落武者への追討隊との戦闘で、朝長,義隆,重成は深手を負い命を落とした。また一行からはぐれた頼朝も捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生存していた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗した。
 馬も失った義朝は裸足で尾張国知多郡野間にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せるが、恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害された。享年38。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首された後に政清は自害したとされる。年が明けた正月9日、両者の首は獄門にかけられた。伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の伝承にちなんで多数の木刀が供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある。
 父や弟たちを滅ぼし、河内源氏内での優位を確立してからわずか3年で死を迎えたが、義朝が東国に築いた地盤と嫡男の頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となった。

 久寿2年(1155年)、父・義朝が叔父の源義賢と対立した際には、義賢の居館武蔵国比企郡の大蔵館を急襲し、義賢や義賢の舅・秩父重隆を討ちとって武名を轟かせた。この合戦は秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものである。なお、この事件の後に義平が処罰されていないのは、当時、武蔵守であった藤原信頼と義朝が関係を深めており、信頼の黙認があって起こした事件であるからとする説がある。この大蔵合戦以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。この「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。
 保元元年(1156年)、保元の乱が勃発するが、義平の動向は定かではない。
 保元の乱の後、摂関家の影響力が後退し、強大な権力を有していた治天の君の不在という事態に陥っていた。そのような中、信西が頭角を現すが、従来の院近臣の間には急速に勢力を台頭させた信西に対する反感が生じた。また後白河天皇が二条天皇に譲位すると、こんどは天皇側近が天皇の親政を目指し、院の側近たる信西を敵視するようになり、藤原信頼が反信西派の中心に座るようになる。信頼は武士にとって必要な物産を産出する陸奥国を押さえ、義朝が基盤とした国の一つである武蔵国の知行国主であるため、義朝は信頼との関係を深めていく。また信頼は、平清盛にも娘を嫁がせて誼を結ぶようになり、朝廷の武の要というべき立場に立つ。
 平治元年(1159年)12月9日、反信西派により三条殿焼き討ちが発生し、信西が殺害される。この焼き討ちには義朝も加わっていた。熊野参詣で京を離れる清盛の留守中を狙ってひそかに挙兵しなければならず、また当初、信頼らは清盛が敵に回るとは考えなかったために少数の兵で挙兵したが、義朝は東国にいる義平に援軍を要請した。義平は三浦氏,上総介氏,山内首藤氏など、自身や義朝に私的に親しい東国武士のみを率いて都に上った。
 一時的に政権を掌握した反信西派であったが、直ぐに天皇親政派と院政派の間に亀裂が生じる。やがて清盛が都に戻ると天皇親政派は清盛と手を結び、二条天皇を六波羅に移し、藤原信頼を謀反人として追討することを決定した。12月26日、清盛が弟の経盛,頼盛,嫡子・重盛などに命じて内裏に軍勢を派遣する。この日は数時間、都において戦闘が行われたが、義平は兵力では大幅に平家軍に劣る信頼軍の中にあって奮戦するが、戦闘においては敗北。信頼は降伏したが捕えられて殺害され、義朝一行は東国を目指して落ち延びる。
 その途中で三弟・頼朝は一行からはぐれて行方不明になり、次弟・朝長も落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。義平は途中で義朝と離れ東山道から東国をめざすが、途中で義朝の死を知る。その後『平治物語』によると、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったとあるが詳細は不明である。しかし翌年の永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原において処刑された。

源 朝長 源 頼朝

 保元4年(1159年)2月、鳥羽天皇皇女姝子内親王が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮少進に任じられている。また、この頃には従五位下の位階を得ていた。同じころ異母弟の頼朝は、女院号を得た上西門院の蔵人に任じられている。
 平治元年(1159年)12月26日、保元の乱後に実権を握った藤原信頼と父・義朝に対する討伐の宣旨が下り、平氏の軍勢が内裏に押し寄せた。朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。この時、朝長は16歳。やがて戦闘が始まるが『愚管抄』によると信頼方は合戦が始まるとすぐ京の市街地に出て、やがて六波羅へと押し寄せたが、最後は十騎程度の兵力となり敗北。都を脱出する。
 義朝は少人数となった子や一族郎党とともに京を落ち再挙すべく東国を目指すが、大原の竜下越で落人狩りの比叡山の山法師が行く手を遮ったため合戦となり、義朝の大叔父の義隆は首筋に矢を受けて落馬、朝長も左腿に矢を受けてしまい、鐙を踏みかねた。一行はなんとか山法師を蹴散らして先へ進むが、近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、その後逃亡を続ける。その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。一行は美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着いた。ここの長者・大炊は義朝の妾の一人であった。一行はここでもてなされて休息した。
 ここで義朝は義平と別れ、義平は東山道へ向かった。義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否。父の義朝に頼んで殺害してもらったとされる。
 大炊は朝長の亡骸を丁重に埋葬したが、やがて平氏の知るところとなり、墓は暴かれ朝長の首は京の六条河原に義朝とともに晒された。朝長の首は守役だった大谷忠太が奪い返し、遠江国豊田郡友永村に埋葬された(首の墓は静岡県袋井市に2つ存在)。朝長の胴の墓は岐阜県大垣市にある。

 清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の3男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政,北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍(鎌倉殿)に任じられ、東国に独立した武家政権・鎌倉幕府を開いた。

詳細はWikipedia(源頼朝)を参照

大姫 源 頼家

 治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃、北条政子との最初の子として誕生。大姫が数え3歳の時に頼朝が挙兵している。
 寿永2年(1183年)春、頼朝と対立していた源義仲は、長男で当時11歳の源義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とすることで頼朝と和議を結んだ。しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死する。
 同年(改元して元暦元年)4月21日(6月1日)、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させる。義高と同年の側近であった海野幸氏を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打ち、その間、殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていたが、夜になって事が露見する。
 頼朝は激怒して幸氏を召し捕り、堀親家以下軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じる。それを知った大姫は魂を打ち消すほど打ちしおれてしまう。4月26日(6月6日)、親家の郎党である藤内光澄が入間河原で義高を討ち取った旨を報告する。これが、大姫の耳に入り、病床に伏してしまう。母・政子は、日を追って大姫が憔悴していくのは義高を討ったためだと憤り、頼朝に強く迫り、藤内光澄は晒し首にされた。7歳であった大姫の心は深く傷付き、その後十余年を経ても義高への思いに囚われては床に伏す日々が続いたという(『吾妻鏡』)。
 源義高が殺害された直後の元暦元年(1184年)8月、後白河法皇は台頭する頼朝との関係を強化すべく、頼朝の乳母である比企尼の外孫である惟宗忠久(島津氏の祖)がを介して、摂政・近衛基通に頼朝の娘を嫁がせる意向を示したが、叔父の九条兼実を摂政として推す意向に傾いていた頼朝は最終的には拒絶している。
 頼朝は建久6年(1195年)2月、妻・政子と大姫,頼家らの子女を伴って京へ上る。表向きの目的は東大寺の落慶供養であったが、都では大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていた。頼朝は宮廷の実力者である土御門通親と丹後局にさかんに接触を図る(兼実は娘がすでに後鳥羽天皇の中宮になっており、土御門通親,丹後局とは政敵であった)。丹後局と接触した頼朝は、兼実一門を失脚(建久七年の政変)させるなど、大姫の入内を計ったが、大姫は病から回復することなく建久8年7月14日(1197年8月28日)に死去した。享年20。
 大姫入内運動は、頼朝が通親,丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらしたとされることが多い。頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて女御とするも、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫する。娘を天皇の后に立て自らが外戚になろうという、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった限界とも評されている。
 常楽寺に大姫の墓と伝えられる塚が残るほか、大姫の守り本尊であった地蔵を祭った地蔵堂(岩船地蔵堂)が扇ヶ谷に残る。

 寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である比企能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女・河越尼(河越重頼室)が呼ばれた。その他の乳母として梶原景時の妻のほか、比企尼の3女(平賀義信室),能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。 頼家の側近は、比企三郎,比企時員,小笠原長経,中野能成,北条時房,和田朝盛,源性,義印,紀行景,平知康などであり、政治的後見人は梶原景時と比企能員であった。いずれも頼朝によって指名された人物である。
 建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家,大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は武芸の達人として成長した。建久9年(1198年)には長子の一幡が誕生している。
 建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。
 頼家が家督を相続して3ヶ月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を聴断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経,比企三郎,比企時員,中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。
 合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人から御家人66名による景時糾弾の連判状を頼家に提出した。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救うことができず、景時は鎌倉追放を申し渡され、一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した。九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し他の武士たちと対決したが、言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせたことは頼家の失策であると評した。
 建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。
 景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、阿波局の姉である政子が引き渡しを拒否する。
 全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が跡を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請された。使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた(比企能員の変)。
 一人残った頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握ることになる。
 頼家は伊豆国修禅寺に幽閉される。修禅寺では近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして子供の面倒見は良かったらしく、現代でも愛童将軍地蔵というものが当地には残されている。翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23(満21歳没)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという。

源 一幡 源 公暁

 建久9年(1198年)、2代将軍・源頼家の長子として誕生。翌年、祖父・頼朝が死去し父・頼家が家督を相続した。一幡が6歳となった建仁3年(1203年)7月に頼家が重病となり、危篤状態に陥ると家督相続を巡って一幡の母の実家・比企氏と、頼家の母方の外戚・北条氏が対立し、比企能員の変が起こる。
 『吾妻鏡』では、家督相続は一幡に関東28ヶ国の守護・地頭職を譲り、北条時政が後ろ盾となっている千幡に関西38ヶ国の守護・地頭職を譲るとする決定に比企能員が反発し、頼家に讒言して時政と千幡の討伐を計った。時政が先手を打って能員を殺害し、一幡の住む小御所を襲撃して比企一族を滅ぼしたとしている。一幡と若狭局も、その時に一族と共に焼死したという。
 『愚管抄』によると、重病に陥った頼家は8月30日に家督をすべて一幡に譲ろうとしたが、それで一幡の外祖父比企能員に権勢を握られることを恐れた北条時政が、9月2日に能員を呼び出して謀殺し、頼家の弟で一幡の叔父である千幡を次期将軍に立てるべく都へ使者を送り、その間に比企一族は北条氏一派の率いる大軍に攻められて尽く滅ぼされる。一幡は軍勢が押し寄せる前に母が抱いて逃げ延びたが、11月3日に北条義時が差し向けた刺客である被官の藤馬に捕らえられ、刺し殺され埋められたという。享年6。頼家の子女の中で最初の死亡者である。現在、能員邸のあった場所には妙本寺が建ち、その中に比企一族の墓一幡の振袖塚、若狭局の蛇苦止堂がある。

 正治2年(1200年)、2代鎌倉殿・源頼家と正室・辻殿の嫡男として誕生。幼名は善哉。 頼家の子で次男、辻殿の出産した初の男子である。祖父・源頼朝の死から翌年のことである。『吾妻鏡』によれば、母は足助重長(加茂重長)の娘の辻殿であるが、『尊卑分脈』などによれば一幡の母と同じく比企能員の娘若狭局、縣篤岐本『源氏系図』によれば三浦義澄の娘となっている。
 父である将軍頼家は建仁3年(1203年)9月の比企能員の変によって鎌倉を追放され、翌年、善哉が4歳の時に北条氏の刺客によって暗殺された。建永元年(1206年)6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台・北条政子の邸に渡り、着袴の儀式を行う。10月22日、乳母夫である三浦義村に付き添われ、政子の計らいによって叔父の3代将軍・源実朝の猶子となった。建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮寺別当・定暁の下で出家し翌日には受戒のため上洛する。園城寺において公胤の門弟として入室し、はじめは頼暁という戒名を受け、公胤の弟子となってからは公暁の戒名を受けたものと見られる。
 建保5年(1217年)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。同年10月11日からは裏山で千日参篭をおこなう。翌建保6年(1218年)12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っているが、一向に髪を下さないため、人はこれを怪しんだという。
 年が明けた建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺(約60cm)ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣する。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、下襲の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落とした。同時に3,4人の仲間の法師が供の者たちを追い散らし、源仲章を北条義時と間違えて斬り伏せた。そして『吾妻鏡』によると、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消したという。一方、『愚管抄』によると公暁はそのような声は上げておらず、鳥居の外に控えていた武士たちは公卿らが逃げてくるまで襲撃に気づかなかったとある。儀式の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、その場に武装した者はいなかった。
 公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者の備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送った。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこのことを告げた。義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく長尾定景を差し向けた。
 公暁は義村の迎えが来ないため、1人雪の中を鶴岡背面の山を登り、義村宅に向かう途中で定景らに遭遇する。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとしたところを定景に討ち取られた。享年20。これによって辻殿及び源為朝の血筋は断絶することになった。
 定景が公暁の首を北条義時邸に持ち帰り、義時が首実検を行った。なお、『吾妻鏡』によると実朝の首は所在不明だが、『愚管抄』には岡山の雪の中から実朝の首が発見されたとある。

源 鞠子(竹御所) 源 実朝

 第2代将軍・源頼家の娘。位記の名は鞠子、妙本寺の寺伝によれば媄子とされるが、どちらも本名ではないとされる。一幡、公暁は異母兄または同母兄、栄実は異母兄、禅暁は異母兄または異母弟と考えられている。母は『尊卑分脈』では源義仲の娘となっており、また『諸家系図纂』所収「河野系図」には河野通信と北条時政の娘の間に生まれた美濃局を母と伝えるが、「竹の御所」は比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから、実際の母は比企能員の娘・若狭局と考えられる(美濃局については竹御所の乳母とされる)。
 誕生の翌年に比企能員の変が起こり、頼家は北条氏によって将軍の座から逐われ、間もなく暗殺された。建保4年(1216年)3月5日、祖母・北条政子の命により、15歳で叔父の源実朝の御台所(西八条禅尼)に謁見し、その猶子となる。他の頼家の子が幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子の死後にその実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした。
 寛喜2年(1230年)、29歳で13歳の第4代将軍・藤原頼経に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男児を死産し、本人も死去した。享年33。これにより頼朝の直系子孫は死に絶え、源氏将軍の血筋は断絶した。藤原定家の日記『明月記』によると、竹御所の訃報がもたらされた鎌倉武士たちは、源氏棟梁の血筋が断絶したことに激しく動揺し、京都にあった御家人はこぞって鎌倉に下ったという。定家はこのことに対し「平家の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べている。
 墓は比企一族の菩提寺である妙本寺にある。
 竹御所は、祖母・政子の死に際して、「葬家御仏事」を沙汰しているが、これは、嫡女が生家の家地における祭祀遂行の機能を有した当時のイエ世界の文化から考えて、まさに鎌倉将軍家,河内源氏の嫡女としての役割を果たしたことになる。加えて、藤原姓のまま将軍職についた藤原頼経の権威を補完する役割を果たしたとされる。
 竹御所には、方違え(陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつ)に関する記事が多いが、方違えや作事に関係して名前が見える二階堂行然,大和久良(藤内左衛門尉),中原季時,窟平左衛門尉広光,牧右衛門尉は、政子の側近の当事者・血縁者・関係者であり、このことからも竹御所が政子の後継者であったと考えられる。

 建久3年(1192年)8月9日巳の刻、鎌倉で生まれる。幼名は千幡。乳母は政子の妹・阿波局,大弐局ら御所女房が介添する。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ、面々に千幡を抱かせる。
 建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により兄・頼家は将軍職を失い、伊豆国に追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、千幡への家督継承の許可を求めた。朝廷は異例ながらこれに応じ、7日に千幡を従五位下・征夷大将軍に補任した。
 10月8日、北条時政邸において12歳で元服し、後鳥羽院の命名により、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元,小山朝政,安達景盛,和田義盛ら百余名で、理髪は祖父・北条時政、加冠は門葉筆頭・平賀義信が行った。24日にはかつて父が務めた右兵衛佐に任じられる。実朝は朝廷を生涯重んじた。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。
 元久元年(1204年)12月、京より後鳥羽の従妹でもある後鳥羽の寵臣・坊門信清の娘(西八条禅尼)を正室(御台所)に迎える。
 元久2年(1205年)6月、畠山重忠の乱が起こり、北条義時,時房,和田義盛,三浦義村らが鎮める。乱後の行賞は政子により計らわれ、実朝の幼年の間はこの例によるとされた。閏7月19日には、時政邸にあった実朝を侵そうという牧の方(北条時政の妻)の謀計が鎌倉に知れわたり、実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れた。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて実朝のいる義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国北条に追われ、執権職は義時が継いだ(牧氏事件)。9月2日、後鳥羽が勅撰した『新古今和歌集』を京より運ばせる。和歌集はいまだ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見ることを望んだ。
 建永元年(1206年)10月20日には母の命により兄・頼家の次男である善哉を猶子とする。承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。回復まで2ヶ月かかった重症で、実朝はそれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の瘡痕を恥じて参拝を止めた。その期間には将軍が箱根権現・伊豆山権現と三嶋大社に参詣し幕府の安泰を祈願する二所詣も行われていない。
 承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられ公卿となり、政所を開設する資格を得、親裁権を行使し始める。朝廷は実朝を一貫して重んじ、征夷大将軍の本来相応しい官位へ近づけるべく若くして引き上げた。
 建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。2月22日、3年ぶりに鶴岡八幡宮に参拝する。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家し、22日には受戒のため上洛した。
 建暦3年(1213年)2月、泉親衡の乱が起き、その中には侍所別当を務める和田義盛の子である義直と義重,甥の胤長らもあった。実朝は義盛の功労を考え、義直と義重の罪を許したが、胤長は乱の張本として許さず、それを伝えた北条義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した。

 4月、義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、義盛は兵を挙げ、戦いは3日酉の刻に義盛は討たれ、合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると、侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った(和田合戦)。

 9月19日、日光に住む畠山重忠の末子・重慶が謀反を企てるとの報が届くと、実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は命を奪っことは粗忽の儀が罪であると述べ、宗政の出仕を止める。閏9月16日、兄・小山朝政の申請により実朝は宗政を許す。11月10日、頼家の遺児が政子の命により御所で出家する(法名は栄実)。23日、藤原定家より相伝の『万葉集』が届く。
 建保2年(1214年)11月13日、京で義盛らの残党が、栄西のもとで僧となっていた栄実を擁して謀反を企んだとの噂があったため、広元の在京する家人が栄実や義盛残党のいる一条北辺の旅亭を襲撃し、栄実は自害した。
 建保4年(1216年)3月5日、政子の命により実朝室が頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える。
 6月15日、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧・陳和卿が鎌倉に参着し実朝と対面すると、陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じことを述べ、その夢を他言していなかったことから、陳和卿の言を信じた。11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝すために渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元はしきりにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向かって曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。また渡宋を命じられた葛山景倫は、後に実朝のために興国寺を建立したという。
 建保5年(1217年)6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。
 建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、実朝は右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。右大将はかつて父が補任された職で、左大将はその上位である。同月、政子が病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣する。政子は京で後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面したが、『愚管抄』によればこの際に実朝の後継として卿局が養育していた後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を東下させることを政子と卿局が相談したという。3月16日、実朝は左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られた。
 建保7年(1219年)1月27日、八幡宮拝賀の日、夜になり神拝を終え退出の最中、公暁に襲われ、実朝は落命した。享年28(満26歳没)。同日、公暁は討手に誅された。
 28日、妻は落餝し、御家人百余名が出家する。『吾妻鏡』によると亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺したとあるが、『愚管抄』には首は岡山の雪の中から見つかったとある。実朝には子がなく、幕府は実朝の後継として摂関家の三寅(九条頼経)を迎えたため、源氏将軍および初代・源頼信から続く武家の棟梁を継ぐ河内源氏嫡流の血筋は断絶した。

源 貞暁 源 希義

 母・大進局は大倉御所に出仕する侍女であったが、頼朝の寵愛を受け懐妊する。しかし頼朝の正室・北条政子がこれに気づいたため、その怒りを畏れた頼朝によって遠ざけられ、家臣の長門景遠の宅にて男児を出産する。政子の嫉妬を恐れて出産の儀式は省略され、景遠は母子を匿ったことを知った政子の勘気を蒙り、子を連れて逃げ深沢の辺りに隠居した。その後も政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられる。異母弟の実朝が生まれる3ヶ月前の建久3年(1192年)5月19日、7歳の時に仁和寺の法眼・隆暁(一条能保の養子)に弟子入りして出家するため上洛する。頼朝は出発の夜、密かに息子の元を訪れ、太刀を与えている。
 同年6月16日、頼朝の義弟・一条能保に付き添われて仁和寺の勝宝院に入室した。法名を能寛と名乗り、同寺の道法法親王に灌頂を受けている。さらに修行を重ねた後、法名を貞暁と改め、行勝に学ぶため高野山に登ってより一層俗界から遠ざかった。これ以降、源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、世間と隔絶した中で一人修行に励み、人々の尊崇を集めた。
 なお、異母弟である3代将軍・源実朝を暗殺した甥の公暁の師は貞暁ではなく、鶴岡八幡宮寺の3代目の別当・定暁と考えられる。
 政子も晩年には遂に貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行なった。これを受けて貞暁は貞応2年(1223年)に源氏三代の将軍の菩提を弔うために、高野山五坊寂静院の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立。その中に安置した阿弥陀如来座像の胎内に父・頼朝の遺髪を納めて供養したほか、実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行なっている。
 寛喜3年(1231年)、高野山にて46歳で死去(自害したという説もある)。これにより、頼朝の男系男子の子孫は断絶した(男系女子も3年後の竹御所死去により途絶え、頼朝の直系子孫は完全に断絶、同時に政子の血筋も途絶えた)。
 なお、『尊卑分脈』は貞暁と能寛を別人としているが、これは誤りである。

 平治元年(1159年)の平治の乱で父兄が滅亡した後、駿河国香貫にて母方の伯父・藤原範忠によって朝廷に差し出され、乱後の処分で永暦元年(1160年)3月11日に土佐に流罪と決められた。以降「土佐冠者」と号し、そのまま流刑地にて成人した。
 寿永元年(1182年)、全国各地の源氏勢力による平家打倒の気運拡大の中で、希義もまた志を抱き、土豪の夜須行宗を頼ろうとするが、平重盛の家人である蓮池家綱,平田俊遠に事前に察知され、奇襲攻撃を受けて討ち取られた。享年31。
 同母兄である頼朝はその死をいたく悲しみ、大軍を派遣して蓮池,平田らを殲滅した後、希義の墓所として西養寺を建立して菩提を弔った。さらに希義の遺児・希望を取り立てて吉良荘(高知県吾川郡春野町)を下賜、その末裔が戦国時代の土佐七豪族の一・吉良氏(土佐吉良氏)となったと伝わる。
 希義の師僧であった土佐国の琳猷上人は、平家の目を恐れて葬儀もされずうち捨てられていた希義の遺体を引き取って供養したという。文治元年(1185年)3月27日、上人は希義の鬢髪を首にかけて鎌倉を訪れ、頼朝と対面した。頼朝は賛辞を尽くしたと伝えられる。

吉良希望 阿野全成

 『吉良物語』によると希義の死後程なく、希義が通っていた平田経遠の娘が男子を生んだとされる。
この男子は建久5年(1194年)、亡父の旧友であった夜須行宗に伴われて伯父で鎌倉幕府将軍の源頼朝に拝謁した。頼朝はすぐには信じなかったものの最終的には認め、土佐国吾川郡のうち数千貫を、三河国吉良荘のうち馬の飼場三百余貫を下賜した。男子はこれ以後、吉良八郎希望を名乗って土佐吉良氏の始祖となった。また、母方の平田経遠の子を召し出し、大高坂山に住まわせて大高坂経興(大高坂氏祖)を名乗らせたとされる。
 以上の事歴は『吉良物語』でのみ確認されている。『吉良物語』が後世の文献であるうえに『吾妻鏡』などの同時代の公式記録には記述がないため、希望の実在自体を疑う見方も存在する。

 平治の乱で父・義朝が平清盛と戦って敗れて殺されたため、幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗る。ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。
 治承4年(1180年)、以仁王の令旨が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下った。石橋山の戦いで異母兄の頼朝が敗北した直後の8月26日、佐々木定綱兄弟らと行き会い、相模国高座郡渋谷荘に匿われる。10月1日、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たした。兄弟の中で最初の合流であり、頼朝は泣いてその志を喜んだ。
 頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺を与えられ、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚する。阿波局は建久3年(1192年)に頼朝の次男・千幡(後の実朝)の乳母となった。全成は駿河国阿野荘(現在の静岡県沼津市)を領有し鎌倉幕府の御家人として仕えたとされる。
 正治元年(1199年)に頼朝が死去し、嫡男の頼家が鎌倉殿を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と結び、頼家一派と対立するようになる。建仁3年(1203年)5月19日、先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年51。
 さらに7月16日には3男の播磨公頼全が京都の東山延年寺で源仲章,佐々木定綱らが遣わした在京御家人によって誅殺された。
 全成の墓は沼津市の大泉寺に嫡男(4男)・時元のものと並んで現存し、市の史跡に指定されている。また、誅殺された場所は栃木県芳賀郡益子町の宇都宮家の菩提寺がある集落にあるとされ、その場所(大六天の森)には従者のものと阿野全成のものとされる2つの五輪塔が遺されている。
 武家としての阿野氏は時元の系統に受け継がれた。その子孫は南北朝期までは確実に存在したことが記録に残っているが、同じ河内源氏の系統に繋がる足利氏などと比べて、守護にも任命されることがない小勢力でしかなかった。
 その一方、全成の娘は藤原公佐と結婚し、その子・実直は母方の全成の家名を称し公家・阿野家の祖となっている。

阿野時元 愛智円成(義円)

 母が北条氏であるため、4男であるが嫡男とされた。父・全成が殺害されたとき、時元は外祖父である北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国東部の阿野荘に隠棲した。
 建保7年(1219年)1月、従兄弟に当たる第3代将軍・源実朝が殺害されると、翌2月11日に宣旨を賜わり東国を管領することを企て、軍勢を率いて深山に城郭を構えたとの報せが15日に幕府にもたらされた。
 しかし思うように兵を集めることができないうちに、執権・北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に討ち取られた。『承久記』は、最期は自害であったと伝える。
 実朝死後、清和源氏嫡流の血筋を引く男子が複数存命であったが、北条政子や北条義時は親王将軍の迎え入れを後鳥羽上皇院政下の朝廷に要請し、源氏の血統が次々と粛清されている。時元の事件もその一環として起こったという側面もある。
 時元の墓は静岡県沼津市の大泉寺に父・全成のものと並んで現存する。

 初め園城寺にて出家して卿公円成となり、後白河天皇皇子である円恵法親王の坊官を務めていた。「卿公」は母が再婚した養父の一条大蔵卿にちなむ命名と考えられるため、養父の縁故によって円恵に仕えたと見られる。その後、時期は不明だが父である義朝から一字とって義円と改名している。
 治承5年(1181年)、叔父・源行家が尾張で挙兵すると、その陣に参加。墨俣川河畔にて平重衡らの軍と対峙する(墨俣川の戦い)。この時、義円は単騎敵陣に夜襲を仕掛けようと試みるが失敗。平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に討ち取られた。享年27。
 なお、『吾妻鏡』には義円が頼朝のもとに赴いた記述がないため、義円は直接尾張に入り行家とともに独自に挙兵したと思われるが、『源平盛衰記』に頼朝が義円に1000余騎を与え行家援護のために派遣したとあることから、頼朝が打倒平家の兵をあげた際にその指揮下に合流し、頼朝の命により援軍として行家のもとに派遣されたのではないかとする推測もある。
 遺児である義成は愛智荘(現・愛知県愛知郡)を領し、愛智氏の祖となった。また、義円の墓は、岐阜県大垣市墨俣町上宿の田畑の中にあり、旧墨俣町の文化財に指定されている。

愛智義成 源 義経

 外祖父(父・義円の妻の父)の慶範は尾張国愛智郡(愛知県愛知郡)の郡司であったとされる。この縁により、父・義円が墨俣川の戦いで戦死した後は同地において養育され、長じた後は愛智蔵人を名乗り愛智氏の祖となったという。
 子孫は数代に亘って尾張の豪族として存続、義円の兄・阿野全成後裔の阿野氏とも交流があり、少なくとも南北朝期までは続いていたことを『尊卑分脈』等で確認することができる。それ以降の尾張においても愛智姓は散見されるが、系譜上の関連性は不明である。

 源義朝の9男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺の覚日和尚へ預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。 やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、『平治物語』では承安4年(1174年)3月3日桃の節句に鏡の宿に泊まった際に元服し、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。なお、『義経記』では父・義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
 治承4年(1180年)8月17日に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、佐藤継信・忠信兄弟らおよそ数十騎を引き連れ、兄のもとに馳せ参じた。義経ともう一人の弟・範頼は頼朝から遠征軍の指揮を委ねられる。
 寿永3年(1184年)正月、頼朝と敵対した木曾義仲を範頼軍とともに討ち取る。その後も一ノ谷,屋島,壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。
 しかし、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、衣川館で自刃した。
 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓という言葉を始め、多くの伝説,物語を生んでいる。

 

詳細はWikipedia(源義経)を参照