長篠城跡

ながしのじょうあと(Nagashino Castle Ruins)

【C-AC019】探訪日:2015/8/15・2019/4/6

【C-AC019】長篠城跡 愛知県新城市長篠市場22ー1

【MAP】

〔駐車場所〕 長篠城址史跡保存館の駐車場を利用できる。

【C-AC019】長篠城跡

   1508(永正5)年、今川方であった菅沼元成が寒狭川(豊川)と大野川(宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上に築いた。元成は岩古屋城から移って長篠菅沼氏と呼ばれるようになる。
 その後、今川氏が衰退し徳川家康に服属するようになると、1571(元亀2)年、武田信玄による三河侵攻の一端として天野景貫によって攻められる。このときは陥落を免れたが、菅沼総領家の田峯菅沼氏からの説得を受け、城主・菅沼正貞は武田軍の傘下に加わった。
 1573(元亀4)年、武田信玄が西上作戦の途中で死去すると、その間隙に徳川家康によって攻められ、正貞は開城退去した。以後、家康は武田軍の再侵攻に備えて城の拡張を図る(現在残る本丸の土塁などはこの時のものと考えられている)。
 1575(天正3)年5月、武田勝頼が15,000の兵を率いて、奥平貞昌が約500の手勢で守る長篠城を攻め囲んだ。21日には武田軍と徳川・織田連合軍との設楽ヶ原の戦いに発展し、武田軍は大きな損失を出し甲斐へと退去する。
 翌1576(天正4)年、長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌(貞昌)は新城城を築城し長篠城は廃城となった。
 1698(元禄2)年、大身旗本の一色直興が知行替えで当地を領した際には長篠城跡の二の丸に陣屋を置いている。
 城跡には本丸の北側に大規模な空堀と土塁が残っており、本丸南には野牛郭跡を確認できる。しかし、本丸北側の二の丸,瓢曲輪や弾正郭跡などのほとんどは埋没,破壊され、現在は畑地や宅地などになっている。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1929年12月17日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 江戸時代:前期
関連年号 1508年・1571年・1573年・1575年・1576年

1698年

関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
菅沼元成 G139 徳川家康 TG01 天野景貫 F015
菅沼正貞 G139 武田信玄 G432 武田勝頼 G432
奥平信昌(貞昌) KD13 一色直興 G350

 

【C-AC019】長篠城跡
 

 

【C-AC019】長篠城跡

 

長篠城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)

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帯曲輪跡 内堀 内堀 内堀 本丸跡 土塁 土塁 土塁上の城址碑 土塁上から見た本丸跡 本丸跡 鳥居強右衛門磔の場所方向 鳥居強右衛門磔の図(史跡保存館内) 弾正郭跡 弾正郭跡 【転載】物見櫓跡 野牛郭跡 【転載】野牛郭跡 二の丸跡(兵糧庫跡) 殿井跡 大手門跡 搦手門跡