<皇孫系氏族>宣化天皇後裔

TJ02:多治武綱  継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 ― 多治武綱 ― 安保実光 TJ04:安保実光

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安保実光 安保実員

 武蔵国丹党系安保(阿保)氏の祖。父は秩父(丹)綱房(のちの新里恒房)。その後、父から武蔵国賀美郡の安保郷の地を譲られ居住し、安保(阿保)氏を称した。子息は、安保五郎左衛門尉実房,安保六郎兵衛光重,安保七郎左衛門尉実員などで、この内、実房と光重は、建久元年(1190年)の源頼朝の入洛時の随兵として、『吾妻鏡』に名が確認できる。
 実光の戦歴は、一ノ谷の戦い,奥州合戦,承久の乱で、『吾妻鏡』にも確認できる。1184年(壽永3年)の一ノ谷の戦いでは源範頼の配下で平家側と戦った。1221年(承久3年)の承久の乱の時、既に実光は老齢の身であったが、北条政子の命で参戦した。実光が属した勢力は、美濃の摩免土で官軍の第一線を破り、数十名の関東武士と共に京の宇治川へ向った。 そして宇治川の戦いで溺死することとなる。宇治川を渡ろうとする前、塩谷家経(児玉党系塩谷氏の2代目)と語り合ったとされる。家経の方も71歳と言う老齢の身であり、実光と同様、重い鎧を着たまま荒れ狂う宇治川の激流に流され溺死した。これらは老いてもなお武蔵武士の勇ましさを示すこととなる。
 安保氏の直系の宗家である安保宗実(入道して道堪)は、鎌倉幕府の滅亡と共に滅び、結果として、実光の7男・七郎左衛門尉実員の子孫である安保光泰、つまり安保氏の分家筋が宗家を継ぐ形となり、安保氏は鎌倉時代以後も栄えることとなる。

 安保氏の2代目。承久の乱の恩賞として播磨国の守護に任じられる。実員の娘は鎌倉幕府3代執権である北条泰時の継室となって次男・時実を産むが、時実は16歳で死去している。これ以外の孫として阿保頼泰がいる。実員の一族は本来分家の流れだが、鎌倉幕府の崩壊とともに宗家が滅ぶと、代わりに惣領家を継ぐこととなる。頼泰の子孫は室町時代を生き抜いて、のちに後北条氏に属する武将として、上野国内の要衝を支えることとなる。