中国(後漢王朝)渡来系

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原田種直 嘉摩田種国

 平安時代末期に起った保元の乱・平治の乱に際して、原田種雄と嫡子・種直は平氏勢として活躍、平氏との関係を深めていった。保元の乱以降、大宰大弐に続けて任官した平氏(平清盛・平頼盛)と私的主従関係を結ぶ。永暦元年(1160年)、種直は平重盛の養女を室に迎えた。
 大宰府における平氏政権として日宋貿易の代行者となる。平氏の軍事力の中核のひとつでもあり、治承3年(1179年)11月の平氏による政変では、郎党を率い御所の警護を行う。治承5年(1181年)2月、九州における反平氏の鎮西反乱で肥後の菊池隆直らと合戦する。また、寿永2年(1183年)8月の平氏都落ちの際には私邸を安徳天皇の仮皇居にしたと伝えられる。
 文治元年(1185年)2月、源範頼軍との葦屋浦の戦いにより、弟・敦種が討ち死にした。同年2月の屋島の戦い、3月の壇ノ浦の戦いに敗北し、平家没官領として領地を没収された。没収された土地は武藤資頼に与えられた。関東(一説には扇ガ谷)に幽閉されるも建久元年(1190年)に赦免され、御家人として筑前国怡土庄の地頭に任じられる。福岡県糸島市二丈波呂には、種直が平重盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる龍国寺がある。
 鎌倉市建長寺の裏山にも原田地蔵と伝わる故地があり、かつては地獄谷と呼ばれていたこの地にて処刑される平家の人々を、種直とその一族が弔ったものと考えられる。この地蔵堂はやがて心平寺となり、北条時頼の代にはその地に建長寺が創建された。 

 治承3年(1179年)、平清盛が後白河法王を幽閉した時、種直の次男・種国が警護役をつとめている。
原田興種 原田隆種

 明応5年(1496年)、大内氏に逐われて対馬に逃れていた少弐政資が筑前に上陸、高祖城を包囲、攻撃した。原田氏は大内義興に支援をたのみ、よく少弐氏の攻撃を防戦し、義興の援軍を得てこれを撃退した。翌明応6年(1497年)、大内氏によって少弐政資は自害し、原田興種は筑前守護代に任じられた。
 永正5年(1508年)、大内義興は庇護していた前将軍・足利義尹(義稙)を奉じて上洛、興種も九州諸氏とともにこれに従い、足利義澄を近江に敗走させるのに功があった。原田興種は大内氏に属して厚い信頼を受け、興種の「興」は大内義興の偏諱をうけたものである。一方で興種は、父・弘種や一門の菩題を弔うために、高祖山麓に太祖山金龍寺を創建している。
 大内義興が上洛している間に大内氏の領国である中国地方は、出雲の尼子経久や安芸の武田氏らが自立の動きを示し、強力な大内氏体制にも動乱の波が押し寄せていた。そのような享禄元年(1529年)、義興が死去すると義隆が大内氏の家督となった。享禄2年(1530年)、義隆は原田興種と家臣の杉興連に命じて少弐資元を攻め、資元を肥前に追い払った。翌享禄3年(1531年)、戦陣に明け暮れた興種は病をえたようで、隆種に家督を譲って隠居したものと思われる。

 享禄年間(1528~32年)に父の興種から家督を譲られたと推測される。北九州における大内氏方の代表的な国人領主の一人でしばしば大友氏方の国衆と争った。大寧寺の変で大内義隆の自刃後も主君の恩顧に筋を通して、逆臣・陶隆房には従わなかったところ、筒城主で家老の西重国が不満を持って肥前国の龍造寺隆信と内通したため、これを討った。しかし天文21年(1552年)に大友氏が陶氏と連合して侵攻すると、配下の王丸隆(兵庫允),西重通等々がこぞって寝返って陶氏に呼応したため、高祖山城は落城した。隆種は降伏して蟄居を強いられ、陶氏から弘中隆兼が代官として姪浜城に入り、大友氏からは臼杵鑑続が派遣されて柑子岳城に入って筑前国の政所を設置したが、弘治元年(1555年)に厳島の戦いで隆房が自害すると、その混乱に乗じて高祖山城を奪還した。
 弘治3年(1557年)3月、大内義長が毛利元就に攻められて自害すると、筑前の大内領は大友氏に組み入れられたため、隆種も一時大友氏に属した。同年、家臣・本木道哲が嫡男・種門と3男の繁種を讒言したため、8月7日、2人を謀反の疑いによって岐志で謀殺した。後にこれは誤情報であったと判明するが、隆種はもともと4男の親種を寵愛しており、これを嫡子とした。
 永禄11年(1568年)4月、鑑種に同調して立花鑑載が大友氏に反乱を起こすと、毛利氏は援軍(清水左近将監)を送ったが、これに親種が加わっていた。大友勢が立花城を攻囲中、柑子岳城の城代・臼杵新介(臼杵鎮続)が太宰府に出陣したため、隆種入道了栄は虚を突いて柑子岳城を奪い取った。新介は慌てて帰還して城を回復。追撃する臼杵勢と原田勢は交戦すること1日7回にも及んだ。原田勢は退却したが、了栄は篝火を焚き、火の付いた火縄を竹に挟みんで2~3百本も立てて、鉄砲隊が待ち構えているように装って、臼杵勢の追撃を止めさせた(第一次池田川原合戦)。
 一方、龍造寺隆信は高祖山へ進出したため、了栄は西へ転じて、鹿家峠の戦いで、これを撃退した。7月19日、臼杵鎮続は高祖山の麓で原田勢を攻撃したが、この小金坂の戦いは、了栄が鎮続を撃退して敗走させた。8月2日、鑑種の臣・衛藤尾張守は、親種と清水宗知と共に陥落した立花城を奪還しようとしたが撃退され、清水は長門に帰還、親種は高祖山城に敗走する。了栄は原田親秀を救援に派遣して、8月5日、第1次生松原合戦で追っ手を撃退したが、嫡孫・秀種など家臣の多くを失った。
 元亀2年(1571年)、了栄の次男の草野鎮永入道宗陽と吉井隆光の領地争いで吉井浜合戦(吉井合戦)が勃発。両氏は共に了栄の配下で調停を試みたが失敗し、合戦の後、宗麟の下知で両氏は和睦した。
 元亀3年(1572年)正月、鎮続の跡を継いだ柑子岳城主・臼杵鎮氏は、今津毘沙門(登志神社)に参詣する了栄を暗殺しようとするが、失敗。原田勢に逆襲され、これが1月28日の第2次池田河原の戦いとなって、敗れた臼杵鎮氏は泊城へ逃れようとしてたどり着けず、平等寺(筑紫野市)で郎党と共に自害して果てた。筑前臼杵一党が滅ぼされたと聞いた宗麟は激怒し、天正2年(1574年)4月1日、鎮続を再び筑前に派遣して了栄の首を要求させた。原田氏の親族で会議をしているところに親種が鷹狩りより帰り、これを聞いて憤激して自らの腹を十字に切り裂いた上で首を落として本木大原に投じさせた。これには10人余の士が追腹をして殉じた。臼杵側に検死を要求し、親種の遺体に間違いなければ帰還するように求めたところ、臼杵の執筆・坂本伊織という者が、親種の首を持ち帰ると言ったために、了栄は激高して柑子岳城を攻めて必ず宗麟に復讐すると誓ったが、この頃、大友氏の勢いは強くすぐに行動に移すことはできなかった。
 嫡子を失った了栄は先祖が開基した天台宗極楽寺を再興し、曹洞宗に改めて萬歳山龍国寺として親種の菩提を祀った。また草野鎮永の次男は人質として送っていたが、龍造寺氏に請うて元服させ、了栄の養嗣子・信種とした。
 天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで大敗すると、筑前の情勢も再び不穏となり、筑紫広門,秋月種実,宗像氏貞が相次いで龍造寺氏に組して大友に反旗を翻し、了栄もこれに同調して蜂起した。宗麟は立花道雪,高橋紹運,志賀道輝の三将を筑前に派遣して鎮定させようとしたが、最終的に了栄が陣頭指揮をして大友勢を撃退。立花勢は生松原に退却したため、これを追撃して第2次生松原合戦となった。了栄は、大友方武将・木付鑑実の立て篭もる柑子岳城を包囲し兵糧せめとしたが、8月13日、第3次生松原合戦は両軍痛み分けに終わり、双方が手を引いた。しかし糧米の尽きた柑子岳城は開城投降して退いたため、志摩郡は原田氏の領有となった。同月19日、草野鎮永の領地に波多親が侵攻したため、了栄は援軍を送り、浜崎でこれを破った。
 天正9年(1581年)、原田勢は龍造寺隆信と共に安楽平城を攻略したが、この頃には了栄は老衰でなくなったようである。原田氏の実権は草野鎮永が握り、息子・信種を当主としてもり立てたが、これを快く思わない者が家臣におり、これに波多親が介入して天正12年(1584年)の鹿家合戦となる。 

原田親種 原田信種

 弘治3年(1557年)、本木道哲の策略により兄の種門・繁種が謀反の罪を着せられ、岐志の南林寺で討死したのち、家督を継ぐ。
 永禄8年(1565年)秋、立花鑑載の謀反に加勢したが、鑑載が敗れたため逃亡。永禄11年(1568年)、再び鑑載が叛旗を翻した際、父・原田隆種は、鑑載討伐へ出立した臼杵鎮続の留守を狙って柑子岳城を攻略。親種自身は鑑載の援護に駆けつけた毛利勢に加わり大友勢と戦ったが、敵わず高祖山城へ向けて敗走。追撃する大友勢を原田親秀の手勢とともに生の松原で迎え撃った(第1次生の松原合戦)。このとき親種の嫡男秀・種は戦死した。
 この後も原田氏と臼杵氏の抗争は続き、元亀3年(1572年)1月28日、後任の城代・臼杵鎮氏を平等寺にて自刃させた(第2次池田川原合戦)。
 天正2年(1574年)4月1日、大友宗麟は池田川原合戦の件で高祖山城に抗議の使者を送り、父・原田了栄(隆種)の首を要求した。勝機のないことを悟った親種は櫓へ駆け上がり大友の使者を呼ぶと、腹を切り裂き「我が首を大友に渡せ〕と叫ぶや、髷を掴み自らの首を斬って投げ落とした。10余名の郎党も即座に追い腹を斬ったという。 この前年、親種は龍造寺隆信に降っており、その関係を指摘されたため自害した可能性がある。

 実父は肥前松浦の草野鎮永(宗揚)。国衆である肥前草野氏は龍造寺氏に従属したため、永禄11年(1568年)頃より五郎は人質として佐賀に入った。
 宗揚の兄・種門が惣領であったが讒言によって謀殺され、弟の親種が継いだものの天正2年(1574年)に大友宗麟に臼杵氏との抗争を責められ自害。その嫡子・秀種もすでに戦死していたため、原田了栄(隆種)は、草野家に出ていた次男の子、つまり内孫を養嗣子として迎えた。五郎は原田姓に戻り、宗家の跡を継ぐことになった。同年、元服の際には龍造寺隆信より偏諱の授与を受けて信種と名乗り、同8年(1580年)には隆信の娘(実際には養女か)を妻として娶った。
 天正10年(1582年)、信種は龍造寺氏の配下として飯盛城を拠点にして筑前西部の早良郡に勢力を伸ばしていたが、さらに筑紫広門と協力して那珂郡に侵入して砦を築き、兵300を入れて重臣・笠大炊介興長を守将とした。同郡で大友方は山田純規が守る猫嶺城(猫峠城)だけであり、立花道雪は養子・統虎を将として薦野増時や由布惟明,小野鎮幸らを付けて、同城を守るために砦を攻撃させた。4月16日朝、那珂川を渡った立花勢1,000名は二手に分かれて砦を強襲し、原田勢の防戦を撃破して砦を焼いた。笠大炊介らは早良郡に退却した(岩戸合戦)。
 天正12年(1584年)、信種は祖父・了栄の重臣達よりも実父の草野宗揚を頼みとして後見を任せて重用していたため、宗揚の専横に家臣団からは不満が上がっていた。信種もすでに後見が必要な年齢ではなく、他家より家中に口出ししてくることを原田の家臣達は快く思わず、草野を斬ろうという者すらあった。この家中分裂の状況を知った岸岳城主波多親(波多信時)は、原田を侮って国境の境をしばしば犯して所領を横領しようとしていたため、信種らは憤慨していた。3月3日の上巳(桃の節句)に祝儀の使者として波多時実という者が来て酒席となった際、笠大炊介・勘助(繁種)兄弟と口論となって激しく罵倒され、深江良治・鬼木清甫・有田宗良ら他の老臣が仲裁して帰ったが、波多親は従弟の時実が恥をかかされたと激怒し、3月12日に3,000の兵を持って侵攻。浜崎に草野への押さえとして1,000を残し、2,000を率いて波多親は鹿家に陣を布くと、報復として笠大炊介の所領である七山口の民家を焼いて住民200余を殺戮した。これに対して信種も3,000の兵で出陣して吉井岳城に集結し、先手は吉井の浜に陣取った。13日、原田勢の先手1,500が浜伝いに前進して波多勢の先手1,000(波多時実)に襲いかかる。激戦となるが、その最中にさらに信種の後続も鹿家峠を越えて山手より襲いかかり、挟撃を受けた波多勢は敗走。郎党と共に踏み止まって奮戦した波多時実は、笠大炊介に討ち取られた。波多親が兵を再集結しているところに、信種は全軍でこれを攻撃。深江城より深江良治が、吉井城より吉井亮が出撃して加勢したので、波多勢は包囲攻撃を受けて潰走。波多親は突撃して信種と差し違えようとしたが、家臣に止められて、辛くも唐津に脱出した(鹿家合戦)。
 天正13年(1585年)10月、豊臣秀吉が惣無事令を出して九州の諸大名に停戦を命じたが、これに従ったのは大友義統,筑紫広門,立花統虎,高橋紹運のみであった。同族の秋月種実が板並左京亮を島津氏に遣わして服属すると、信種もこれに倣った。龍造寺政家(隆信の子)も人質を出して降ったため、筑後の龍造寺配下の国衆も尽く島津に従った。
 天正14年(1586年)3月、島津義久は鹿児島を出陣して肥前侵攻を開始した。島津忠隣らに筑紫広門の篭もる勝尾城を攻囲させ、島津忠長,伊集院忠棟に高橋紹運の篭もる岩屋城を攻囲させる。信種も岩屋城の戦いへの参加を促されるが、富田国茂,有田宗良,波多江種豊・種時ら家臣を代わりに出陣させた。8月に秀吉の九州征伐が始まると、黒田孝高,安国寺恵瓊を先導に、毛利輝元,吉川元春,小早川隆景の大軍が筑前に上陸した。原田の家臣団は宮部継潤・浅野長政に使者を遣わして降参の意思があることを伝え、信種に降伏を進言したが、信種は拒否して諸城の守りを固めさせた。小早川隆景は高祖城を包囲して降伏を勧告した。信種は依然として島津の援軍を待って籠城する覚悟であったが、寄せ手の中から黒田家の家臣・久野重勝が鴾毛の馬にまたがって一番駆けをしてきたのに驚き、飯盛城の方角に無数の旗指物が立っていて大軍が接近してくるのに肝を潰して、結局は戦わずに投降することを決意した。12月、秀吉はこの手柄を喜び、久野重勝に一番乗りの朱印状を与え、高祖城は毛利勢の三将に与えることにした。信種は城を退去し、高祖城はこの後に破却された。
 天正15年(1587年)3月、秀吉が九州に着陣。信種は4月12日に高良山で秀吉に拝謁して赦免されたが、所領を問われた際に、有りの儘を報告すれば領地過分として没収されると思い、所領を過少に申告した。秀吉は信種に筑後国上妻郡の領主・黒木家永の遺領の内、300町分である1万8千石を与え、筑後に国替えとして、隣接する肥後の国持大名とされた佐々成政の与力とした。しかし、信種は実は怡土郡・志摩郡・早良郡の3郡を領しており、それを知った秀吉は「小身にては家を立てること無用」と言って、遅参を理由に旧領を没収してしまった。
 天正16年(1588年)、肥後国人一揆が起こった責任を取らされて成政が切腹を命じられると、信種は肥後北半国を与えられた加藤清正の与力となった。文禄元年(1592年)の文禄の役から慶長3年(1598年)の慶長の役まで、清正の配下として朝鮮に出兵した。信種の没年も不明で、死所も未詳である。

原田嘉種

 信種の死後、家督を継ぎ清正に仕えた。しかし、清正と不和となり領地没収追放処分を受け、嘉種・種房兄弟は唐津城主・寺沢広高に食客として遇され2,000石を与えられた。
 ところが、寺沢家は島原の乱によって改易処分となり、ふたたび浪人となった嘉種は江戸で天海僧正と出会い、慶安4年(1651年)に天海の紹介で会津藩主・保科正之に2,000石で仕えるようになった。保科正之に手厚く遇されたという。承応3年(1654年)に会津表留守役を命じられ、会津若松に下った。
 万治3年(1660年)、会津原田氏初代当主・嘉種(種次)は76年の生涯を閉じた。墓は会津若松城下の興徳寺にあり、その子孫は幕末まで続いている。