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種冬は秋月氏の第15代当主である秋月文種の3男として誕生した。弘治3年(1557年)、父・文種や長兄の晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自刃したが、種冬は次兄の種実と弟・種信と共に家臣の大橋豊後守に連れられて古処山城より脱出し同盟者だった毛利氏に助けられたといわれる。 その後、秋月と同盟者である高橋鑑種の養子となり、高橋種冬(高橋大蔵少輔種冬)を名乗った。一時的に小倉城に入るものの、次兄・種実に次男・元種が誕生(1571年)。元種は天正6年(1578年)に高橋鑑種と養子縁組をして高橋元種となった。その翌年に高橋鑑種は亡くなっている。いったん滅びた秋月氏であったが、次兄・種実の時代になり最も隆盛な時期があり、そこには種冬の尽力もあったといわれ、当時は36万石であったといわれる。 秋月氏は豊臣秀吉の九州平定に最終的に降伏し、種実は剃髪して茶器の名品とされる「楢柴肩衝」を献上した。秀吉の九州平定が完了すると、秋月氏は日向国高鍋に移封された。古処山城は天正15年(1587年)廃城となった。 種冬は筑前国島郷蜑住で養子となり大庭源馬と改名した。慶長7年(1602年)、3男・三太夫に四国八十八箇所の土を持ち帰り、年月をかけて島郷八十八箇所を開祖した。島郷八十八箇所は、18世紀中期に島郷小竹の庄屋・香山氏の尽力により整備された。大庭源馬は1614年に亡くなった。
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日向国縣藩主。元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生まれる。天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となる。 天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が衰退すると、翌7年(1579年)に義父・鑑種は反大友の兵を挙げ、大友方の千手鑑元の守る香春岳城を攻め落し、元種が城主となった。同年、義父・鑑種が病死し家督を継ぐ。 天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐に際しては、毛利軍と戦った。8月26日、三浦元忠率いる3,000の毛利先遣軍が、豊前門司城を出て元種の支城豊前小倉城を攻略しようとして進軍したが、元種は伏兵を用い大里周辺で攻撃。父・種実の援護もあって門司城に押し返した。その後10月初め、毛利輝元の指揮のもと吉川元春,小早川隆景,軍監・黒田孝高ら2万5000の軍勢により小倉城が再度攻撃され、城代・小幡玄蕃が自刃し10月4日に陥落。これにより毛利軍へ抵抗できないと判断した元種は降伏した。しかし、島津軍の攻勢が始まり、北上した島津軍が大友氏の本拠である府内城に迫る形勢となったことで、元種も再び島津方に転じて香春岳城に籠城した。元種は賀来与次郎,賀来新右衛門,賀来久盛らに香春岳城の出城として2千余人で宇留津城を守らせ、香春岳城を援護させると共に豊前国と豊後国の連絡を遮断した。しかし、支城である豊前松山城を攻められ、11月7日には宇留津城が陥落し、男女373人が生捕られ磔にかけられた。11月15日には支城の障子岳城も落城。元春が病没するも、毛利軍の攻勢は止まらず、香春岳城三の丸が陥落する。吉川勢は付城を築いて20日間に渡って水手を絶ったため、12月11日元種は降伏した。 天正15年の戦いでは、秀吉率いる肥後方面軍の一番隊に配された。戦後、日向国縣5万3,000石に転封。松尾城に入った。 天正19年(1591年)9月27日、元種に従わなかった中山城(向山城)の三田井親武を三田井氏家老・甲斐宗摂の協力により討ち取る。続いて、岩戸大野原亀山城,河内亀頭山城を落城させ領内を掌握。再度の裏切りを警戒し、甲斐宗摂を討ち取る。 天正20年(1592年)、文禄の役では毛利吉成指揮下の四番隊に配され、5月10日頃に京城入り。慶長2年(1597年)の慶長の役では、黒田長政指揮下の三番隊に配された。垣見一直の元、奉行として泗川倭城(泗川新城)を築城。翌3年に帰国した際には、多くの朝鮮人を連れ帰り、その中の陶工たちが庵川で陶窯を開いたと伝わっている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、兄の秋月種長と行動を共にし、8月5日、種長,垣見一直,熊谷直盛,相良頼房らと共に近江瀬田橋を警護。8月25日に石田三成の指示で大垣城に移動し、9月14日から大垣城に籠城した。15日、本戦で西軍が敗れると水野勝成の勧めで東軍に内応した種長に従った。そして、同じく籠城していた相良頼房を誘って、熊谷直盛,垣見一直,木村由信・木村豊統父子らを城中で殺害、23日には大垣城守将の福原長堯を降伏させ、徳川家康から所領を安堵された。一方で9月29日には、東軍伊東祐慶の家臣・稲津重政によって持城の宮崎城が攻められ落城し、城代・権藤種盛父子が戦死。翌6年8月、家康の裁定によって宮崎城は元種に返還され、稲津重政は伊東祐慶に討ち取られている。慶長8年(1603年)、縣城が完成し、同城に移った。また城下町の建設を推進し、大友宗麟によって破壊された寺社を復興・創建し、保護した。 慶長14年(1609年)8月、猪熊事件の猪熊教利を領内で捕縛し、京へ護送したが、慶長18年(1613年)10月24日、元種は幕命により改易となった。理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・坂崎左衛門(宇喜多左門,水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。また猪熊教利を領内に匿ったためとする説もある。元種の身柄は長男の左京と共に陸奥棚倉藩主・立花宗茂にお預けの処分となった。後、慶長18年(1613年)12月~同19年(1614年)7月の間、縣藩は幕府預かりとなり、幕府上使の豊後臼杵藩・稲葉家と肥後人吉藩・相良家の管理下に置かれた。慶長19年(1614年)10月9日、棚倉で死去した。享年44。
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