中国(後漢王朝)渡来系

YA07:原田種直  大蔵広隅 ― 原田種資 ― 原田種直 ― 高橋頼種 YA13:高橋頼種


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高橋頼種 高橋高種
 大蔵氏流高橋氏は、種直の長男・頼種(頼重)が筑後国の高橋城主となったことに始まる。また、種直の弟・種安(種泰)が筑後国御原郡高橋に住し、高橋を称したのが始まりとする説もある。このほかにも大蔵氏の系図は多種多様なものが伝わっており、それぞれ異同が多く、高橋氏をはじめ大蔵氏流諸氏の出自を断定することは難しい。 

 筑後国出身で大蔵姓高橋氏の当主であったが、のちに伊豆国に赴き、伊勢宗瑞(北条早雲)に従った。
 筑後大蔵高橋氏の当主となるが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を捨てて、文明16年(1484年)に母方の縁者・畠山氏を頼り逐電した。その年、京都に上って室町将軍足利義尚に仕え、文明19年/長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に参加。長享3年(1489年)に足利義尚が病死すると、畠山政長の内意により、堀越公方・足利政知に請われて伊豆国へと赴き、伊豆雲見城を与えられてその城主となる。しかし、延徳3年(1491年)に政知が死去すると、堀越公方家は内紛を起こし、足利茶々丸が弟を殺害するなど、その勢力は衰退の一途を辿る。
 高種は伊豆雲見に蟄居したが、伊勢宗瑞の重臣である多目権兵衛尉からの再三にわたる招きを受け、伊勢宗瑞に従い、伊豆平定で戦功を挙げた。この時の戦功で、伊勢宗瑞の養女(外山豊前守娘)を妻として北条一門としての扱いを受けている。明応3年(1494年)、相模大森氏からの小田原城奪取にも参加し、奇策をもって功を挙げた。また、文亀元年(1501年)に伊豆下田に城を築くなど海岸の防備を強固にし活躍した。この時に、高橋左近将監高種と改名した。しかし、中年より足病を発し、常に籠居していた。永正12年(1515年)8月3日没に死去。46歳。家督は長男の北条綱高(高橋種政)が北条氏綱の猶子となり、別家を興したため、次男・高橋氏高が継いだ。 

高橋氏高 高橋高盛

 永正6年(1509年)、伊豆国雲見上ノ山城にて誕生する。父の高橋高種が6歳の時に亡くなると、兄の綱高と共に、外祖父・伊勢盛時に養育された。元服すると、民部之輔(彦四郎)種長と名乗った。
 大永4年(1524年)正月、江戸城を攻略の折、兄・綱高とともに大道寺氏に属し、上杉朝定を河越城に敗走させ追撃し戦功を立てた。氏高の功績と母の縁もあり、伯父の北条氏綱から通字「氏」の1字を賜り、高橋民部大輔氏種と名乗り、武蔵国江戸城に入城した。この後、扇谷上杉氏との戦いで多大な戦功を挙げ、兄の綱高から偏諱「高」の1字を賜り、高橋郷左衛門尉氏高と改める。
 天文3年(1534年)、扇谷上杉氏家臣の難波田善銀が守る武蔵国多東郡深大寺城を攻略した。その後、兄の綱高と共に、深大寺城奪回に押し寄せた難波田善銀率いる扇谷上杉軍と対峙した。この時に武蔵野烏山に砦を築く。その間に北条氏綱が河越城へ進軍したため、難波田勢が撤退を始めると、それを追撃。多くの敵兵を討ち取り大勝した。
 天文7年(1538年)10月7日、氏綱に従い、小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦う(第一次国府台合戦)。氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。
 天文15年(1546年)、氏康に従い、上杉朝定,古河公方・足利晴氏の連合軍と河越城で戦う(河越城の戦い)。北条綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかけ、上杉朝定,難波田善銀は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。また、上杉憲政は上野平井に、足利晴氏は下総に遁走した。
 天文18年(1549年)9月、川口渡において、太田資正と戦闘し、これを打ち破った。永禄3年(1560年)、上杉謙信が鎌倉を攻めたときに、甥・北条康種に従い出陣し、小荷駄奉行の柿崎景家の軍を破り、戦功を挙げる。永禄7年(1564年)には第二次国府台合戦に参陣。
 永禄12年(1569年)、武田信玄が駿河国に侵攻したため、氏康に命じられ、伊豆国の鷲頭山に砦を築いた。
 天正5年(1577年)、嫡子・高盛に家督を譲り、伊豆国雲見上の山城に居住する。天正18年(1590年)の小田原征伐では、氏直の命により、吉良氏の兵600人を率いて伊豆国下田城に検使役・援軍として籠城する。3月に小田原城が落城したため、氏直に従い、随行者として高野山に入山。氏直の死後、帰郷し、武州烏山の砦に住した。
 慶長元年(1596年)、甥・北条康種が発意し、氏高が副願いして、康種の自宅に真福寺を開基した。開僧として弟・日栄を住職とした。慶長元年(1596年)11月27日没。享年87。子の源七郎某は本多政重に仕え、加賀国に移住した。 

 永禄4年(1561年)、伊豆国雲見上ノ山城にて誕生する。元服すると左衛門尉高盛と名乗り、北条氏政に出仕した。
 天正5年(1577年)、父・高橋氏高が隠居し、伊豆国雲見上の山城に居住したことにより、家督を相続する。同年、武田勝頼の家臣・春日虎綱が鷲津保塁を攻めた時、四面楚歌になった高盛は士卒を指揮して、自ら軍太刀を奮ってこれを死守した。討ち取った首級12。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では、父・氏高が下田城に籠城したために、高盛が北条氏直の命により、小田原城の巡夜厳警将となる。同年6月26日夜半、井伊直政,松平康頼の軍が小田原城の壕を渡り、城内に侵入してきた時、山角上野介,同嫡子・四郎左衛門尉,同次男・左近大夫が防戦したが、笹郭に侵入してきた。高盛は、従兄弟・高橋康種、弟の高忠・高信と共に、山角勢を援護し防戦し反撃した。この戦いで、高忠・高信が討死し、高橋家の譜代家臣のほとんどが戦死した。小田原城落城後、高盛は氏直の命に従い、家臣の福田勘解由,秋山小二郎,伊藤右衛門,小屋山徳左衛門などの一族と共に、武州烏山の砦に住した。寛永10年(1633年)1月29日没。享年72。 

高橋長種 高橋鑑種

 事情は不明であるが、兄の高橋高種が出奔し、室町幕府第9代将軍・足利義尚に仕えたため、その跡を継いで高橋氏当主となる。当主となった長種は宝満屋形と称され、天文18年(1549年)に死去。
 長種には男子がなく、高橋氏重臣の伊藤氏や福田氏は近隣の強国大友氏の当主である大友義鑑(義長の子)に養子を要請した。義鑑は、一萬田親宗に高橋氏の名跡を継承させ、鑑種と名乗らせた。長種の死により大蔵系高橋氏は途絶えることとなるが、その名族の名前は利用され続け、高橋鑑種が謀反し処罰されると、今度は吉弘鑑理の次男である吉弘鎮種(高橋紹運)が跡を継いだ。 

 一萬田親泰の次男で親実(のち鑑相,鑑実の父)の弟といわれる。初めは一萬田親宗を名乗る。大蔵党の筑後高橋氏を継承し、主君・大友義鑑の偏諱と高橋氏の通字「種」の字により高橋鑑種に改名。
 天文22年(1553年)閏正月、大友義鎮(宗麟)は一萬田鑑相,宗像鑑久,服部右京亮の討伐を命じた。大友の老中・吉岡長増達は反対していたが、義鎮は命令を強行させている。これにより一萬田家当主である兄・鑑相,弟・鑑久、甥達を殺された(甥の中で鑑相の嫡男・鑑実は生き残った)。そして、大友義長は弘治3年(1557年)に毛利元就に攻められ自害させられてしまう。鑑種は義長に使者として豊後に送られていたため無事であったようである。その後、大友氏に帰参した。
 鑑種は武勇に優れた人物であり、弘治2年(1556年)の小原鑑元の反乱で宗麟も避難するほどの大乱が勃発した際、激戦であったが、鑑種は鑑元が篭る城に火を放つことに成功して勝利の元を作る大功を成した。翌年7月の秋月文種討伐でも功を挙げた。これらの功により永禄2年(1559年)4月10日、二~三千町の大禄を与えられ宝満城督となり、大宰府を管理・支配することになった。また支城として岩屋城を築いた。筑前国守護代に任命されたともいわれる。
 永禄5年(1562年)7月、毛利氏の家臣・山田満重の度重なる誘いを受けて毛利に寝返った。原因は不明であるが、兄・鑑相が反逆の廉で殺されたこと、更に美人と評判の兄の妻を宗麟が愛妾としたことで、宗麟を恨んだとも、宗麟から大内義長を助けるために対毛利攻めのために諸豪族の調略を命じられ、この下準備に奔走していたにもかかわらず、両家が急に和睦してしまったために調略活動が水泡に帰し、面目を失ってしまったためとも伝わる。
 鑑種を味方にしたことに毛利隆元は大喜びした。
 鑑種は豊前国の香春岳城の譲渡を求めたが、毛利家臣の杉連緒が所有しており、毛利元就・隆元親子は二人を継続して味方させることに頭を悩ませている。また鑑種は、毛利家が筑前一国を手にした際にはそのうち6郡の割譲することを要求し、毛利親子はこれを了承している。9月には毛利に寝返させるため、同じ筑前にいる大友家臣・立花鑑載への調略を開始した。しかし、永禄6年(1563年)6月下旬、将軍・足利義輝の調停により、大友と毛利の和睦が合意に達した。大友は条件の一つとして鑑種が寝返りの際、欲しがった香春岳城の破却を提示、和睦を急ぎたい毛利元就は一回の交渉で了承した。香春岳城の破却を知った鑑種は香春岳城破却の撤回を求めた。元就は一旦は香春岳城の破却を延期したが、同年の7月に大友と毛利の和睦が締結されていることから、結局は香春岳城は破却されたものとみられている。
 鑑種は立花鑑載への調略を続けていたのだが、立花鑑載は毛利に寝返るのを躊躇っており、あるいはその気が無かったようで、曖昧な返事を出し続けていた。鑑種は毛利に力ずくで立花城を攻略することを選択肢に入れることも、伝えている。
 永禄9年(1566年)には、「鑑種に謀反の志あり」と次々に大友氏に報告が入った。宗麟は当初は噂を信じていなかったが、謀反が確実であることを知ると、かなり悔しがっている。
 討伐隊が来ることを察すると、秋月種実,龍造寺隆信を誘い大友氏に反旗を翻した。秋月種実は永禄10年(1567年)4月上旬に挙兵、隆信は6月か7月に挙兵している。これに合わせ毛利氏も宗像氏貞,筑紫惟門・筑紫昭門,原田隆種・親種親子を呼応させ大友氏に蜂起させた。
 永禄10年(1567年)7月、宗麟は吉岡長増を前線総大将、戸次鑑連,吉弘鑑理,臼杵鑑速らを指揮官とした討伐軍を派遣。鑑種の甥・鑑実を中心とする一萬田氏までもが加わっていた。7月7日、大友軍は高橋鑑種の家臣・足達兵部少輔の守備する岩屋城を攻略した後、宝満山・九峰において鑑種と交戦した。これ以降、鑑種は北九州における親毛利勢力との連携のもと、長期の籠城戦を展開することとなった。
 永禄11年(1568年)2月、立花山城主・立花鑑載は毛利元就の調略に応じて再び大友氏に叛旗を翻し、毛利方の初期援軍として清水左近将監を迎え入れた。さらに筑前国人の原田隆種・原田親種父子や筑後安武城主・安武鎮政も反大友勢に加わり、鑑種の派遣した家臣・衛藤尾張守とともに立花山城の防衛に当たった。しかし、同年7月23日、立花鑑載は大友軍の攻勢により敗死し、立花山城は陥落した。同日、高橋鑑種も宇美・河内方面において戸次鑑連に敗北し、反大友勢力は相次いで瓦解した。この過程で清水左近将監は衛藤尾張守・原田親種とともに再度立花山城奪還を試みたが、いずれも大友軍に各個撃破され、衛藤尾張守は戸次鑑連の家臣・高野大膳に討たれた。清水左近将監は残兵を率いて毛利領へ退却し、毛利氏の支援を失った秋月種実は同年8月19日に大友氏へ降伏した。
 永禄12年(1569年)、大友軍は吉岡長増および齋藤鎮実をもって宝満城の高橋鑑種を包囲する一方、肥前において龍造寺隆信討伐の軍事行動を展開した。一方、毛利元就は同年4月に立花山城下へ進軍し、高橋鑑種の支援を開始した。大友氏は龍造寺氏と和睦し、再び立花山城方面に兵力を集中した。
 大友軍と毛利軍の戦線が膠着する中、大内輝弘の乱や山中幸盛の尼子氏再興活動により、毛利氏は戦線を維持できなくなり、10月15日に撤退し、10年以上に渡った毛利氏と大友氏の筑前争奪戦はようやく終わりを告げた。
 再び後ろ盾を失った高橋鑑種は、同年11月15日に宝満城九峰において大友軍と鉄砲戦を展開したのち、吉弘鑑理を介して大友氏に降伏した。また秋月種実も筑後山隈城において戸次鑑連に敗北し、再び大友氏に降伏した。
 鑑種は高橋家の家督を剥奪され、豊前小倉城主となる。当主を失った筑後高橋氏は断絶の危機を迎えるが、吉弘鎮理(後の高橋鎮種)により名跡が継がれ存続した。鑑種は天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が衰退すると再び毛利氏に従属し、秋月氏より養子・元種を迎えた。 翌天正7年(1579年)正月に毛利氏に反旗を翻して大友氏に寝返った蓑島城の杉重良を攻撃、同年3月4日に重良を討ち取った。さらに同年2月、高橋鑑種は大友方の千手鑑元の守る鬼ヶ城・香春岳城を攻め落し、養子・元種を城主として配した。 同年4月24日に小倉城にて病死。 

高橋種冬 高橋元種

 種冬は秋月氏の第15代当主である秋月文種の3男として誕生した。弘治3年(1557年)、父・文種や長兄の晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自刃したが、種冬は次兄の種実と弟・種信と共に家臣の大橋豊後守に連れられて古処山城より脱出し同盟者だった毛利氏に助けられたといわれる。
 その後、秋月と同盟者である高橋鑑種の養子となり、高橋種冬(高橋大蔵少輔種冬)を名乗った。一時的に小倉城に入るものの、次兄・種実に次男・元種が誕生(1571年)。元種は天正6年(1578年)に高橋鑑種と養子縁組をして高橋元種となった。その翌年に高橋鑑種は亡くなっている。いったん滅びた秋月氏であったが、次兄・種実の時代になり最も隆盛な時期があり、そこには種冬の尽力もあったといわれ、当時は36万石であったといわれる。
 秋月氏は豊臣秀吉の九州平定に最終的に降伏し、種実は剃髪して茶器の名品とされる「楢柴肩衝」を献上した。秀吉の九州平定が完了すると、秋月氏は日向国高鍋に移封された。古処山城は天正15年(1587年)廃城となった。
 種冬は筑前国島郷蜑住で養子となり大庭源馬と改名した。慶長7年(1602年)、3男・三太夫に四国八十八箇所の土を持ち帰り、年月をかけて島郷八十八箇所を開祖した。島郷八十八箇所は、18世紀中期に島郷小竹の庄屋・香山氏の尽力により整備された。大庭源馬は1614年に亡くなった。 

 日向国縣藩主。元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生まれる。天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となる。
 天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が衰退すると、翌7年(1579年)に義父・鑑種は反大友の兵を挙げ、大友方の千手鑑元の守る香春岳城を攻め落し、元種が城主となった。同年、義父・鑑種が病死し家督を継ぐ。
 天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐に際しては、毛利軍と戦った。8月26日、三浦元忠率いる3,000の毛利先遣軍が、豊前門司城を出て元種の支城豊前小倉城を攻略しようとして進軍したが、元種は伏兵を用い大里周辺で攻撃。父・種実の援護もあって門司城に押し返した。その後10月初め、毛利輝元の指揮のもと吉川元春,小早川隆景,軍監・黒田孝高ら2万5000の軍勢により小倉城が再度攻撃され、城代・小幡玄蕃が自刃し10月4日に陥落。これにより毛利軍へ抵抗できないと判断した元種は降伏した。しかし、島津軍の攻勢が始まり、北上した島津軍が大友氏の本拠である府内城に迫る形勢となったことで、元種も再び島津方に転じて香春岳城に籠城した。元種は賀来与次郎,賀来新右衛門,賀来久盛らに香春岳城の出城として2千余人で宇留津城を守らせ、香春岳城を援護させると共に豊前国と豊後国の連絡を遮断した。しかし、支城である豊前松山城を攻められ、11月7日には宇留津城が陥落し、男女373人が生捕られ磔にかけられた。11月15日には支城の障子岳城も落城。元春が病没するも、毛利軍の攻勢は止まらず、香春岳城三の丸が陥落する。吉川勢は付城を築いて20日間に渡って水手を絶ったため、12月11日元種は降伏した。
 天正15年の戦いでは、秀吉率いる肥後方面軍の一番隊に配された。戦後、日向国縣5万3,000石に転封。松尾城に入った。
 天正19年(1591年)9月27日、元種に従わなかった中山城(向山城)の三田井親武を三田井氏家老・甲斐宗摂の協力により討ち取る。続いて、岩戸大野原亀山城,河内亀頭山城を落城させ領内を掌握。再度の裏切りを警戒し、甲斐宗摂を討ち取る。
 天正20年(1592年)、文禄の役では毛利吉成指揮下の四番隊に配され、5月10日頃に京城入り。慶長2年(1597年)の慶長の役では、黒田長政指揮下の三番隊に配された。垣見一直の元、奉行として泗川倭城(泗川新城)を築城。翌3年に帰国した際には、多くの朝鮮人を連れ帰り、その中の陶工たちが庵川で陶窯を開いたと伝わっている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、兄の秋月種長と行動を共にし、8月5日、種長,垣見一直,熊谷直盛,相良頼房らと共に近江瀬田橋を警護。8月25日に石田三成の指示で大垣城に移動し、9月14日から大垣城に籠城した。15日、本戦で西軍が敗れると水野勝成の勧めで東軍に内応した種長に従った。そして、同じく籠城していた相良頼房を誘って、熊谷直盛,垣見一直,木村由信・木村豊統父子らを城中で殺害、23日には大垣城守将の福原長堯を降伏させ、徳川家康から所領を安堵された。一方で9月29日には、東軍伊東祐慶の家臣・稲津重政によって持城の宮崎城が攻められ落城し、城代・権藤種盛父子が戦死。翌6年8月、家康の裁定によって宮崎城は元種に返還され、稲津重政は伊東祐慶に討ち取られている。慶長8年(1603年)、縣城が完成し、同城に移った。また城下町の建設を推進し、大友宗麟によって破壊された寺社を復興・創建し、保護した。
 慶長14年(1609年)8月、猪熊事件の猪熊教利を領内で捕縛し、京へ護送したが、慶長18年(1613年)10月24日、元種は幕命により改易となった。理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・坂崎左衛門(宇喜多左門,水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。また猪熊教利を領内に匿ったためとする説もある。元種の身柄は長男の左京と共に陸奥棚倉藩主・立花宗茂にお預けの処分となった。後、慶長18年(1613年)12月~同19年(1614年)7月の間、縣藩は幕府預かりとなり、幕府上使の豊後臼杵藩・稲葉家と肥後人吉藩・相良家の管理下に置かれた。慶長19年(1614年)10月9日、棚倉で死去した。享年44。 

高橋鎮種(紹運)

 天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊後国筧城に生まれる。義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いと考えられている。永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。
 永禄11年(1568年)、立花鑑載討伐の時、ある夜襲の作戦で兵士を励むために、自分の握飯を食べて配下たちにも与え食べさせ、士気を上げたという。永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の2城を継ぎ、名を鎮種と改めた。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる。
 天正6年(1578年)、耳川の戦いで大友氏は薩摩国の島津氏に大敗を喫する。同年、鎮種は剃髮して紹運と号している。その後、紹運含む大友の筑前五城将(道雪,紹運と鷲ヶ嶽城主・大津留鎮俊,大津留鎮正,荒平城(安楽平城)主・小田部鎮元,柑子岳城主先後に臼杵鎮続,木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実・筑紫広門・原田隆種・田原鑑尚・造寺隆信・宗像氏貞・麻生元重・杉連並・問註所鑑景など筑前・筑後・肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。
 天正9年(1581年)、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・誾千代の婿養子とした。これにより高橋家は次男・高橋統増が継ぐこととなる。
 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺氏が敗北したのを機に、大友氏は失地回復のため筑後遠征を開始する。各所で激戦を繰り広げるが、決定的勝利は得られず、膠着状態が続く。天正13年(1585年)9月、道雪が病没。これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する。のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた。
 天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上。紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し、半月に及ぶ戦い(岩屋城の戦い)の末、敵兵多数を道連れにし玉砕。岩屋城は陥落した。享年39。『筑前続風土記』『北肥戦記』『西藩野史』には激戦の様子が記されている。紹運は度々の降伏勧告を拒絶し玉砕したというのが通説だが、当時の島津の記録である『上井覚兼日記』天正14年7月26日条において、紹運が笠の陣まで出向き退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在する。
 墓所は家臣・藤内重勝が開いた福岡県太宰府市の西正寺、岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓、子の柳河藩初代藩主・立花宗茂が建立した福岡県柳川市の天叟寺と孫の三池藩初代藩主・立花種次が建立した福岡県大牟田市の紹運寺。