中国(後漢王朝)渡来系

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立花直次 立花種次

 はじめ、父・鎮種(紹運)や兄・統虎(宗茂)とともに大友氏に仕え、兄同様、主君・大友義統から偏諱を賜って「統増」を名乗った。統虎は後に立花道雪の養子となったため、統増が筑後高橋氏の嫡男となった。
 天正14年(1586年)に島津氏が大友領である筑前国へ侵攻した際、父は岩屋城、統増は宝満山城をそれぞれ守った。しかし、紹運は岩屋城の戦いにて自刃し、宝満山城でも同じく籠城していた筑紫氏家臣の動揺や、島津氏からの城兵の助命を含めた降伏勧告もあり、家臣の提案による「統増夫妻を立花城へ無事に送り届ける事」という追加条件によりこれを了承した。ところが、統増が城を出ると、約束を違えた島津兵によって妻共々捕虜となり、宝満山城は開城することとなる。
 同年の豊臣秀吉による九州征伐後は、兄と共に豊臣氏の直臣となり、天正15年(1587年)6月25日、筑後国三池郡江浦に1万8,000石の所領を与えられた。佐々成政の領地で肥後国人一揆が起こった際には兄に従って出陣した。
 天正16年(1588年)4月14日、聚楽第に秀吉が後陽成天皇の行幸を迎えた際には供奉を務めた。翌天正17年には従五位下・民部少輔に叙された。
 文禄の役が始まる頃、旧主・義統(吉統)が嫡男の義乗に家督を譲ったのを機に兄が宗虎と改名した際に同じく「宗一」と改名。翌年の大友氏の改易後に「直次」と再度改名した。戦役では両役に出征して、碧蹄館の戦い,第二次晋州城合戦,露梁海戦などで功を挙げた。休戦期間中に国元に帰り、居城を江浦城から筑後内山城に移している。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄と共に石田三成の西軍に与して、伏見城の戦い,大津城の戦いなどに出陣したため、戦後に改易されて失領。浪人して宗卜道白と号した。しかし、兄同様に徳川秀忠に召し抱えられた。慶長18年(1613年)1月28日に家康に拝謁を許される。慶長19年(1614年)10月9日に常陸国筑波郡内の柿岡5,000石を与えられて旗本となった。この時に家号を高橋より、立花に改めた。11月から始まる大坂の陣にも出陣して、徳川秀忠の危機を救う戦功を挙げた。元和3年(1617年)死去。下谷広徳寺に葬られた。
 直次は武勇に優れ、文禄・慶長の役においては明軍に囲まれた兄を血路を開いて救出したことがある。「世に主膳ほど大剛の者なし」と兄から評価された。また、柳生宗矩の門弟となり「新陰治源流」を開祖した。 

 元和3年(1617年)、父の死去により家督を継いで、5月3日、将軍徳川秀忠に初めて拝謁し、11月に常陸国柿岡領5,000石の遺領の継承を許された。元和7年(1621年)1月10日、5,000石を加増されて合計1万石とされた上に、父の旧領である筑後国三池郡のうち1万石に移封された。これが三池藩となる。
 元和8年(1622年)8月6日、父と同じ従五位下に叙された。寛永3年(1626年)、後水尾天皇の二条城行幸のために徳川家光が上洛したのに従い、参内の供奉を務めた。 移封当初は宗茂の居城である柳川城下に屋敷を構えていたが、寛永4年(1627年)、三池郡内に陣屋を築き、これに移った。寛永7年(1630年)3月29日に死去。享年27。直次・種次の二代に仕えた平塚増次が追腹を行った。 

立花種長 立花貫長

 筑後国三池藩の第2代藩主。寛永2年(1625年)8月、初代藩主・立花種次の長男として生まれる。寛永7年(1630年)、父の死去により家督を継ぐ。寛永14年(1637年)の島原の乱では幼少のため、叔父の立花忠茂が代理として出陣している。
 成長してからは藩政を取り仕切り、島原の乱後から行われた踏絵・宗門改めを強化した。さらに、三代官制を五代官制に改めて農民統制を強化した(承応元年(1652年)に三代官制に再編)。その一方で家臣・平塚信昌を重用して早鐘地を築き、通水用の早鐘眼鏡橋(国の重要文化財)を架橋するなど、藩政の確立に尽力した。万治3年(1660年)、12月28日に従五位下・和泉守に叙任する。
 天和2年(1682年)2月27日、長男・種明に家督を譲って隠居し、道運と号した。宝永8年(1711年)2月1日に三池で死去。享年87。 

 貞享4年(1687年)、第3代藩主・立花種明の長男として生まれる。元禄12年(1699年)の父の死去で家督を継ぎ、宝永6年(1709年)3月7日に従五位下・出雲守に叙任する。享保9年(1724年)9月1日、駿府加番に任じられる。元文3年(1738年)からは石炭の採掘が始まり、平成9年(1997年)まで存続した三池炭鉱の礎となった。
 延享4年(1747年)5月19日に死去。享年61。跡を長男の長煕が継いだ。 

立花種周 立花種善

 筑後国三池藩の第6代藩主。延享元年(1744年)8月8日、第5代藩主の立花長煕の次男として生またる。長兄の弥七郎が早世したために世子となり、宝暦12年(1762年)9月26日の父の隠居で家督を継いだ。同年12月18日、従五位下・出雲守に叙任した。
 藩政においては三池炭鉱の整備、寺社政策などに尽力して藩政の全盛期を築き上げた。寛政元年(1789年)12月、領内の菩提寺である紹運寺に、藩祖・立花直次の顕彰碑を建てた。
 寛政元年(1789年)6月に幕府大番頭となる。ちなみにこの約2ヶ月前に旗本で分家の立花直敬が江戸城西の丸切手門番頭を辞任している。寛政4年(1792年)に奏者番兼寺社奉行、寛政5年(1793年)には若年寄となり、寛政の改革に参与した。寛政11年(1799年)には蝦夷地総監に任じられ、近藤重蔵を登用して国後島・択捉島などの探検を支援した。
 しかし、幕政改革の一環である大奥の改革をめぐって老中の松平定信・松平信明派と将軍徳川家斉(その父・治済,大奥などの一橋派)が政争を始めると、種周は一橋派に与したが、一橋派は信明らに敗北した。文化2年(1805年)11月19日に若年寄を解任されて失脚し、12月27日には4男の種善に家督を強制的に譲らされた上、蟄居を命じられた。その後、立花家は種善の時代に陸奥伊達郡下手渡藩に左遷されることとなり、種周も下手渡に移ってから間もなくの文化6年(1809年)10月15日に死去した。享年66。 

 筑後国三池藩の第7代藩主、のち陸奥国下手渡藩の初代藩主。官位は従五位下・和泉守,豊前守。寛政6年(1794年)1月19日、三池藩6代藩主の立花種周の4男として誕生した。4男だったが、兄の種徳らが早世したために世子となった。
 文化2年(1805年)11月、若年寄在任中に幕閣での政争に敗れた父が職を奪われ、12月27日に強制隠居と蟄居を命じられた。これにより、未だ若年の種善が家督を継いだ。しかし、対立派閥の追及は止まず、種周が若年寄在任中に幕府の機密情報を漏洩させたとして、文化3年(1806年)6月5日に陸奥国伊達郡下手渡に左遷的に移封された。藩は下手渡陣屋を新規に構築して藩庁とし、種善は新たな領地において善政を行ったと伝わる。
 天保3年(1832年)12月25日に江戸で死去した。享年39。長男・種温が跡を継いだ。墓所は福島県伊達市の耕雲寺。 

立花種恭

 陸奥国下手渡藩の第3代藩主。のち筑後国三池藩主となり廃藩を迎えた。官位は出雲守。廉斎と号した。明治時代に子爵を授爵する。貴族院議員。
 天保7年(1836年)、2代藩主・立花種温の叔父・立花種道(立花種周の5男)の長男として誕生した。嘉永2年(1849年)に種温が死去したため、その養子として跡を継いだ。その翌年、所領のうち伊達郡内の3078石余に代えて筑後三池郡内で5071石を与えられた。
 幕末期には佐幕派として行動し、14代将軍・徳川家茂の側近として文久2年(1862年)6月に大番頭となり、長州征討でも幕府軍として参加した。文久3年(1863年)には若年寄、慶応3年(1867年)には老中格兼会計総裁となるが、翌年3月に罷免された。戊辰戦争では下手渡側の藩士が奥羽越列藩同盟に参加する。だが、既に三池側の藩士の意向で藩論は新政府への恭順に決定され、藩主である種恭も京都に入っていた。この矛盾した行動は、8月に種恭が奥羽鎮撫の命を受けたことで同盟側の知ることとなり、仙台藩によって攻撃され藩庁の下手渡陣屋を焼失した。9月には新政府の命を得て、居を三池に移した。
 明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となった。明治4年(1871年)、廃藩置県により退任した。明治10年(1877年)10月17日から明治17年(1884年)5月24日の間、学習院初代院長を務める。同年7月8日、子爵となる。明治23年(1890年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。その他、華族会館副幹事,同学務局長,宮内省御用掛,同省爵位局主事などを務めた。
 柔道の講道館創始者の嘉納治五郎は学習院時代の部下であり、立花が揮毫した『講道館』の扁額は小石川下富坂町にあった当時の講道館道場に掲げられていたと伝わる。明治38年(1905年)に死去。享年70。