<皇孫系氏族>桓武天皇後裔

YM01:良岑安世  良岑安世 ― 前野高長 YM02:前野高長

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前野高長 瀧口宗長

 良岑高成の子として平安時代後期に尾張国丹羽郡で生まれる。はじめ良岑高長もしくは立木田高長と名乗る。兄である良岑高義は丹羽長秀などの氏族である児玉丹羽氏を後裔に持つ。妹は平忠盛側室で平忠度の母である。
 丹羽郡小弓荘の荘園の荘主となって土地の開発を進め、母親の由縁をもってその地を前野郷と称号する。高長の母親は常陸国筑波郡前野の生まれといわれる。尾張国丹羽郡前野村九十五貫文を領し、前野姓を自称して良岑氏流前野氏の祖となる。
 子孫に小坂雄吉,前野長康,前野忠康,前野助左衛門,佐々宗淳,前野五郎などがいる。

 初名は前野小二郎。元服して前野右馬入道宗長を名乗る。尾州小弓荘の荘主となった。
 叔母が平忠盛の側室となり、平忠度を産んだため、由縁を求めて京都へ移る。平忠盛・忠度親子に仕えることを許され、京都御所(当時は土御門東洞院御所)の滝口武者へと出世し、帝から勅許を得て滝口姓を名乗る。従兄弟の下野高助や弟の羽黒長高ら一族郎党を率いて京都御所の滝口を本拠とし、御所北門を警護した。
 宗長は、前野家で最初に武門の基礎を築き、子の宗安や孫の時綱などが弓術・馬術などを発展させていった。 

瀧口宗安 前野時綱

 当時の良岑氏流前野氏の当主前野(滝口)宗長の嫡男として長寛2年(1164年)に生まれる。父の宗長は平忠度の従兄弟となり、由縁を求めて一族とともに京都へ移る。父の宗長と共に平忠盛・忠度親子に仕え、京都御所(当時は土御門東洞院御所)の北門警護を任される武士へと出世し、帝から滝口姓を勅許蒙る。
 養和元年(1181年)、木曽冠者・源義仲が挙兵し越後国に攻め込んだ際には、主君・忠度の命令で越後守・城長茂加勢のため出陣する。宗安は、頸城郡吉田荘に砦を築きこれを守った。この際に縁があった菅原天神の社家吉田氏の娘を妻とし、前野時綱らを産んだ。城長茂が信濃国横田河原に攻め入り敗戦する(横田河原の戦い)と、宗安は忠度の本陣がある越中国まで退く。そこで源義仲らを迎え撃とうとするが、義仲の策によって大敗する(倶利伽羅峠の戦い)。その後は京都御所に戻って挙兵した源氏らと戦ったが、主家の平家が滅亡したため一族郎党を連れて大和国の生駒氏のもとへ身を寄せる。
 身を潜めていた頃に院宣があり、河内判官代(藤原秀康のことか)の旗下に参じるため城南寺に向かった(承久の乱)。尾張国へ派遣された宗安は中島宣長とともに洲俣川の守備にあたり、武田信光や小笠原長清と戦ったが敗北した。再び大和国の生駒氏のもとへ敗走したが、六波羅探題から罪を赦免された中島宣長のはからいで尾張に戻り、承久3年(1221年)の春、先祖代々の本貫である前野村九十五貫文を取り戻した。
 嘉禎元年(1235年)4月17日、享年72歳で亡くなった。 

 建永2年(1207年)、前野家当主で滝口武者の滝口宗安の嫡男として生まれる。前野三郎兵衛尉時綱を名乗った。
 父が平忠盛・忠度親子の家臣であり、源氏との戦いに負けたため、大和国生駒山中に隠れて生活していた。承久の乱の際には、院宣を受けて河内判官代(藤原秀康か)の旗下に参ずるべく、父・宗安とともに城南寺へ駆けつけた。尾張川の合戦では父・宗安や中島宣長とともに洲俣川を守ったが、武田信光らの軍との戦いに敗れたために再び大和国へ敗走した。
 承久3年(1221年)の春、生駒氏の協力のもと当時の六波羅探題に願い出て許され、尾張国丹羽郡前野村に戻る。前野村に戻ってからは、文永5年(1268年)8月25日に菅原天満宮(現前野天満社)を勧請し尾張大介職となった中島宣長の家臣となる。宣長の元では、軍馬を育成する馬寮下司(馬を扱う役人)となり、馬術などの武門の基礎がよくできていたといわれている。また、同年9月に前野村八屋敷の東の一角に金光山蓮華寺を建立し、先祖の菩提寺とした。
 文永11年(1274年)8月10日、享年68で死去する。 

前野高康 前野綱宗

 右京職に所属したが、職員の階級は明確に分かっていない。
 織田信広(常松、織田郷広)が尾張守護斯波氏の守護代として越前から尾張に入国した際に上郡十家の一つとして仕えた。高康が守護代織田家に早くから仕えたことで、その後しばらく前野家の領土は安堵され、地位の獲得に貢献した。

 初め下津城主織田敏広に仕え、前野村九十五貫文先祖代々の領地を安堵される。美濃国への出陣命令が出た際は、弟である前野守久などを連れて美濃斎藤氏との合戦にたびたび参加した。後に岩倉城主・織田寛広の家臣となる。
前野時正 前野長宗

 父の綱宗の主君である織田敏広が上洛する際には、綱宗の代理として上洛のお供をしたという。
 嘉吉3年(1443年)9月13日、父の綱宗が死去すると、前野家の家督を継いで当主となり、前野村八屋敷に八屋敷塁を築いた。当時の織田伊勢守家当主である織田敏信の家臣となったのち、奉行役を仰せ付けられた。妹2人を敏信家臣である佐久間与左衛門,中島七左衛門に嫁がせるなど、敏信家臣団との関わりを強くした。美濃国の斎藤妙椿との戦いでは、先陣を切って敵将の首を取るなど、比類なき高名があったといわれる。

 下津前野氏の前野吉久の次男として前野村に生まれる。下津前野氏は、宗家9代・綱宗の弟の守久から始まる分家で、その名の通り下津に住したことに由来する。織田伊勢守家に仕え、その滅亡後は織田弾正忠家の織田信長の旗下となった。兄の前野兼宗は信長に従って永禄4年(1561年)8月の三河国梅ヶ坪城攻めで討死した。長宗は下津ではなく一族本拠の前野村八屋敷の東曲輪に住し、宗家14代・前野長康に仕えた。
 元亀元年(1570年)4月、長康に従い越前国まで出兵。金ヶ崎の戦いでは、加屋場口において手傷を被るも、怯まず二間柄の大身の槍を打ち振り前野党の一陣を務めた。前野義詮がこれに助勢し、覚束なく弱っている長宗を見受けて後方へ退くよう勧めた。しかし、気の強い長宗は手傷をものともせず、連続して懸け来る朝倉勢を突き崩したという。長康は自身の日記『五宗記』に、その奮戦ぶりは一段と見事な働きであったと記している。
 翌年の元亀2年(1571年)5月6日、浅井長政勢が箕浦へ出撃した際は、長康に従って横山城から打って出て中入りし、浅井軍を押し退けたという。
 文禄元年(1592年)の文禄の役では、前野長康隊2,000に属して総大将・宇喜多秀家率いる第二軍に参軍し、生還した。
 文禄4年(1595年)8月19日、主君・長康が関白・豊臣秀次に連座して切腹すると、その婿養子の前野忠康に属し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで忠康が戦死すると、上坂勘解由とともに近江国へと逃れたという。しかし前野吉康が語るには、その後、行方不明となったという。