YM02:前野高長 | 良岑安世 ― 前野高長 ― 前野長義 | YM03:前野長義 | ● |
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前野長義 | 前野正義 |
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織田伊勢守家(岩倉織田家)に仕え、織田信有(織田信安・弟),稲田修理亮と並び、岩倉三奉行と称された。 |
長享3年(1489年)、尾張国の土豪・前野長義の嫡男に生まれる。永正9年(1512年)、父の長義が亡くなると、前野家を継いで12代目当主となる。川並衆とも呼ばれた土豪集団に属し、娘の阿久以を伊勢国北畠家臣の森小一郎の妻にして婿養子とし、小一郎は森正久(前野正久)を名乗った。 |
前野正久 | 前野宗康 |
大和国から伊勢国中江に移住し、そこに中江城を築いて初代城主となる。官位は従五位下・式部少輔。 |
延徳元年(1489年)、前野長義の次男に生まれる。岩倉織田家の軍奉行であり、織田信安の重臣として岩倉城内に屋敷を構えた。 |
小坂雄吉 | 吉田雄翟 |
幼少期は吉田城で育ち、修験者であった覚然坊から棒術を習った。身長は約180㎝ある大男だったという。その後、織田信長に家臣として仕える。信長の命令により、母の生家である吉田城主・小坂氏の跡を継ぎ、小坂孫九郎尉宗吉と称した。その後、織田信雄の傅役を務め、信雄より「雄」の1字を拝命し、小坂孫九郎尉雄吉と改名した。 |
父の小坂雄善は慶長5年(1600年)の関ヶ原戦いに福島正則の家臣として参戦したが、2年後に不祥事がもとで給地を召し上げられたため、武士をやめ前野村に帰農した。帰農後、吉田姓に改め、宗康,雄吉の代から書き続けられていた前野家の記録『南窓庵記』を書き始めるが、関ケ原での槍傷がもとで慶長10年(1605年)に死去した。 |
小坂雄長 | 小坂吉政 |
織田信雄に仕え、その諱を戴き雄の字を名乗ることとなる。その後、信雄の命により豊臣秀吉に仕え、文禄の役の際には肥前国名護屋城に赴く(その際、父・雄吉は同所で死去している)。秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島正則の配下として東軍に属した。 |
但馬国出石郡小坂郷に出生。通称は孫四郎。山名氏に仕えたが、応仁の乱の頃に京都へ出た後に織田敏定の家臣になり尾張国に入った。その頃に吉田城を築城し初代城主となる。当初、同城は柏井城と呼ばれていたが、吉政が姓を吉田に改めたことから、吉田城と呼ばれるようになった。 |
前野嘉兵次 | 前野義高 |
尾張国の土豪・前野家の前野正吉の子に生まれる。本能寺の変後も変わらず長康の一門衆・家臣として活躍し、長康が聚楽第造営奉行を務めた際にも協力した。通説では、文禄の役で長康が第二軍先鋒の軍艦および奉行を務めた際には、嘉兵次は長康の治める土地(但馬国・出石;35,000石)に残っていたとされる。長康が朝鮮から帰還すると、長康は秀吉の甥・関白秀次の宿老に任命される。主君が天下人の補佐役に任命され、その一門衆である嘉兵次も出世するのが当然だが、秀吉に子・秀頼が誕生したことで、秀次が豊臣家を継ぐ意味がなくなった。これにより、秀次およびその家族・家臣らに罰が与えられ、長康は嫡男・景定とともに伏見の六漢寺で切腹した。この頃からの嘉兵次の動きは明確ではないが、秀次家臣の前野忠康ら前野家一門衆を匿った石田三成のもとに忠康とともに身を寄せていたと考えられている。嘉兵次の没年は明らかではないが、もし、忠康とともに三成のもとに身を寄せていたのであれば、関ヶ原の戦いで忠康とともに討ち死にしていたと考えられる。実際、忠康とともに戦った前野家一門・前野九郎兵衛や前野三七郎らは関ヶ原にて戦死している。 |
尾張国の土豪・前野家の前野長義の4男に生まれる。元服後は織田家に仕えて幾つもの戦場を駆け抜け、侍大将に取り立てられ、弓衆となる。主君・信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢いに乗って三河国を攻めた際、義高は平井久右衛門らとともに梅ヶ坪城を攻めた。戦ははじめ激しい弓戦になり、その後は城兵が打って出て激しい白兵戦となった。義高も自ら先陣を切って奮戦したが討死した。平井久右衛門はその強弓を敵味方から賞賛され、信長から褒美を与えられた。 |
前野則義 | 前野義詮 |
尾張国の土豪・前野家に生まれる。則義は前野義康の子で、通称は九郎兵衛。覚然坊から棒術を習った前野宗吉(小坂雄吉)の弟子とされている。前野家文書『武功夜話』によると、この宗吉は則義の従兄弟である。墨俣一夜城築城の頃から前野長康に仕え、一度も出陣命令に従わなかったことはないという。また、則義はよく弟の前野義詮と前野家屋敷に行き、『武功夜話』の著者である吉田雄翟とともに語り合った仲であったという。 |
尾張国の土豪・前野家の前野義康の次男に生まれる。前野家に仕えた家臣で、通称・清助。兄は関ヶ原の戦いで前野忠康とともに戦って戦死した前野九郎兵衛(則義)。九郎兵衛とともに前野宗吉の弟子となって棒術を教わった。戦場でもその棒術が役に立ち、凄まじい槍働きを魅せたという。前野宗吉は織田信雄の家臣であり、義詮の父・義康とともに織田家に仕えていた。兄の九郎兵衛や吉田雄翟(前野宗吉の孫)と仲がよく、3人で前野家屋敷に集まって語り合うことが多かったという。 |