<皇孫系氏族>桓武天皇後裔

YM02:前野高長  良岑安世 ― 前野高長 ― 前野長義 YM03:前野長義


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前野長義 前野正義

 織田伊勢守家(岩倉織田家)に仕え、織田信有(織田信安・弟),稲田修理亮と並び、岩倉三奉行と称された。
 文安4年(1447年)、尾張国の土豪である前野家の当主・前野時正の嫡男として生まれる。初め前野太郎。後に元服して前野小二郎長義を名乗る。長義は、当時の織田伊勢守家当主・織田敏信(織田信定の兄)に仕え、父から軍奉行の役職を受け継いだ。
 長享元年(1487年)9月、室町幕府9代将軍・足利義尚による第一次六角征伐(長享の乱・鈎の陣)の際には、主君・敏信の元で尾張守護・斯波義寛軍に従軍して上洛し、六角行高軍と戦って武功を挙げた。
 延徳3年(1491年)8月、室町幕府10代将軍・足利義材による第二次六角征伐(延徳の乱)の際には、主君の命令で大和守家当主・織田敏定に従って斯波義寛軍に従軍・遠征し、武功を挙げた。上洛した際、宇治川での合戦で敵将2人の首級をあげている。
 明応4年(1495年)、主君の敏信が美濃国鏡野で討ち死にした後は、敏信の嫡男である織田信安に仕えた。


 長享3年(1489年)、尾張国の土豪・前野長義の嫡男に生まれる。永正9年(1512年)、父の長義が亡くなると、前野家を継いで12代目当主となる。川並衆とも呼ばれた土豪集団に属し、娘の阿久以を伊勢国北畠家臣の森小一郎の妻にして婿養子とし、小一郎は森正久(前野正久)を名乗った。
 大永5年(1525年)、祖先の4代・前野時綱が建てた氏神天満宮を再建した。婿の正久もこの地に氏神(正八幡宮)を勧請したため、当時はここに3つの神社があった。明治44年(1911年)10月、天満社の境内社として大日霊社・八幡社を合祀し、前野天満社として残っている。
 弘治2年(1556年)4月20日、美濃国の斎藤道三が息子の斎藤義龍と戦って討ち死にした「長良川の戦い」で勢力を伸ばして勢いづいた齋藤義龍は美濃明智城攻めを行う。この際、清須織田家の織田信長は援軍を送れる余裕がなく、犬山織田家の織田信清に救援を要請する。この時正義は、生駒家長(小折城),中島左衛門尉(小口城),坪内衆(松倉城),川並衆の蜂須賀正勝・前野長康,婿の森正久らとともに援軍として差し向けられたが、それらは総勢僅か300余騎であった。9月21日、援軍が明智城に入った頃には義龍軍も攻撃を開始しており、この戦いで正義は討ち死にし、前野家は弟の前野宗康が継いだ。 

前野正久 前野宗康

 大和国から伊勢国中江に移住し、そこに中江城を築いて初代城主となる。官位は従五位下・式部少輔。
 大永5年(1525年)8月25日、尾張国前野郷に八幡宮(現在の前野天満社)を勧請する。
 天文(1532年〜1554年)の頃、織田信秀の攻撃を受けて、子の正成とともに伊勢国中江を退去。尾張国小折村の生駒屋敷(小折城)二之丸に居住したのち前野郷に住み、前野家12代・前野正義の娘・阿久以を娶って正義の養子となった。
 弘治2年(1556年)、父・斎藤道三を討ち取り勢いづいた齋藤義龍は美濃明智城攻めを行う。この際、清須織田家の織田信長は援軍を送れる余裕がなく、犬山織田家の織田信清に救援を要請する。この時、正久は、生駒家長(小折城),中島左衛門尉(小口城)らとともに援軍として差し向けられたが、それらは総勢僅か300余騎だった。同9月21日、援軍が明智城に入った頃には義龍軍も攻撃を開始しており、明智一門,三宅弐部之助,肥田玄蕃(肥田忠政か)らとともに籠城した。この戦いで義父の正義は討ち死にし、前野家は正義の弟の前野宗康が継いだ。
 また、長島一向一揆に一揆方として参戦したが、生駒家長が織田信長に正久の助命を嘆願したことで助命を許され、再び生駒屋敷の二之丸で蟄居した。 

 延徳元年(1489年)、前野長義の次男に生まれる。岩倉織田家の軍奉行であり、織田信安の重臣として岩倉城内に屋敷を構えた。
 天文16年(1547年)、加納口の戦いの際には、川並衆らとともに織田信康旗下の最前線に配置され、七曲口を攻めたという。
 弘治2年(1556年)、犬山織田家の援軍として明智城に出陣した兄の前野正義が討ち死にし、宗康が前野家の当主となった。
 永禄元年(1558年)、織田信賢・織田信有(信安の弟)らが共謀して信安の追放を謀ると、宗康は信安の身を案じて隠居を献言したという。宗康の判断によって信安は生き延び、後に織田信長に仕えて所領を賜り、摠見寺の住職となった。同年、当時の織田弾正忠家当主である織田信長の尾張統一の際に起こった織田信賢らとの戦い「浮野の戦い」に参加したとされている。この戦いには息子の前野宗吉,前野長康とともに出陣したとされる。
 翌年の永禄2年(1559年)、織田信長軍が岩倉城へ迫ると、一族郎党を連れて岩倉城に籠城したという。重臣による軍議の際、生駒家宗と縁のあった宗康は信長への降伏に反対する織田一門家老の織田七郎左衛門との対立の末、降伏を諦め最後まで籠城したという。また、3男の前野勝長や山内一豊らに信賢を城外に脱出させたという。岩倉城落城の後は前野村に蟄居し、病を得て南窓庵自観と号す。その翌年の永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの前に病死した。

小坂雄吉 吉田雄翟

 幼少期は吉田城で育ち、修験者であった覚然坊から棒術を習った。身長は約180㎝ある大男だったという。その後、織田信長に家臣として仕える。信長の命令により、母の生家である吉田城主・小坂氏の跡を継ぎ、小坂孫九郎尉宗吉と称した。その後、織田信雄の傅役を務め、信雄より「雄」の1字を拝命し、小坂孫九郎尉雄吉と改名した。
 弘治2年(1556年)の稲生の戦いの際には、比良城主の佐々氏らと共に奮戦し、信長からも高く評価されたといわれている。永禄5年(1562年)、小口城攻めの際は犬山城の反撃に対する守備のため、尾張丹羽郡前野村で警備につき、永禄7年(1564年)まで前野村に在住したとされる。
 その後、墨俣城築城に従事して上条城に戻ったが、永禄10年(1567年)の夏頃に軍備を整え伊勢国へと出陣した。滝川一益を総大将にして、生駒家長,森正成,森雄成(正成の子),森正好(雄成の弟・雄秀のことか)らと共に伊勢河内中江に居陣した。吉田城の留守居には前野直高が任命された。
 天正18年(1590年)に信雄が豊臣秀吉により改易された後は尾張丹羽郡前野村に蟄居した。その後、文禄の役の際に、信雄と共に肥前国名護屋城に赴くが、文禄2年(1593年)7月14日、42歳で死去。あるいは慶長6年(1601年)9月13日に76歳で死去したとも。
 弟子に前野清助,前野九郎兵衛らがおり、雄吉・清助・九郎兵衛ら3人は『信長公記』著者の太田孫左衛門(太田和泉守牛一)と昵懇の仲だったという。 

 父の小坂雄善は慶長5年(1600年)の関ヶ原戦いに福島正則の家臣として参戦したが、2年後に不祥事がもとで給地を召し上げられたため、武士をやめ前野村に帰農した。帰農後、吉田姓に改め、宗康,雄吉の代から書き続けられていた前野家の記録『南窓庵記』を書き始めるが、関ケ原での槍傷がもとで慶長10年(1605年)に死去した。
 雄翟は幼少の時から寺に預けられていたが、父の死により還俗して庄屋職を務めた。雄翟もやはり前野家の功績を後世に残したと筆を執る。48歳のときから、『武功夜話』と題して、『南窓庵記』や日記,伝聞をもとに書き始めた。織田信長近くに仕え、桶狭間の戦いを経験した前野家の武功(前野家は諜報活動で活躍)のほか、生駒家,蜂須賀家の動向を知る史料となっている。ただ、編集の途中からは目が悪くなり、娘の千代に代筆させている。

小坂雄長 小坂吉政

 織田信雄に仕え、その諱を戴き雄の字を名乗ることとなる。その後、信雄の命により豊臣秀吉に仕え、文禄の役の際には肥前国名護屋城に赴く(その際、父・雄吉は同所で死去している)。秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島正則の配下として東軍に属した。
 戦後は松平忠吉に仕えたが忠吉が若くして没し、その後は福島正則の下に身を寄せたり、各地を流浪したりしていたが、姉の夫である山口重政が雄長のことを酒井忠世に上申し、寛永10年(1633年)に1000石の旗本として取り立てられた。寛永13年(1636年)、上野国草津において61歳で死去。

 但馬国出石郡小坂郷に出生。通称は孫四郎。山名氏に仕えたが、応仁の乱の頃に京都へ出た後に織田敏定の家臣になり尾張国に入った。その頃に吉田城を築城し初代城主となる。当初、同城は柏井城と呼ばれていたが、吉政が姓を吉田に改めたことから、吉田城と呼ばれるようになった。
 吉政には男子がいなかったため、尾張国丹羽郡前野村の土豪・前野家の前野正俊の子・前野行宗と長女を養子縁組させて小坂家を継がせた。行宗は小坂行宗と改名した。

前野嘉兵次 前野義高
 尾張国の土豪・前野家の前野正吉の子に生まれる。本能寺の変後も変わらず長康の一門衆・家臣として活躍し、長康が聚楽第造営奉行を務めた際にも協力した。通説では、文禄の役で長康が第二軍先鋒の軍艦および奉行を務めた際には、嘉兵次は長康の治める土地(但馬国・出石;35,000石)に残っていたとされる。長康が朝鮮から帰還すると、長康は秀吉の甥・関白秀次の宿老に任命される。主君が天下人の補佐役に任命され、その一門衆である嘉兵次も出世するのが当然だが、秀吉に子・秀頼が誕生したことで、秀次が豊臣家を継ぐ意味がなくなった。これにより、秀次およびその家族・家臣らに罰が与えられ、長康は嫡男・景定とともに伏見の六漢寺で切腹した。この頃からの嘉兵次の動きは明確ではないが、秀次家臣の前野忠康ら前野家一門衆を匿った石田三成のもとに忠康とともに身を寄せていたと考えられている。嘉兵次の没年は明らかではないが、もし、忠康とともに三成のもとに身を寄せていたのであれば、関ヶ原の戦いで忠康とともに討ち死にしていたと考えられる。実際、忠康とともに戦った前野家一門・前野九郎兵衛や前野三七郎らは関ヶ原にて戦死している。 

 尾張国の土豪・前野家の前野長義の4男に生まれる。元服後は織田家に仕えて幾つもの戦場を駆け抜け、侍大将に取り立てられ、弓衆となる。主君・信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢いに乗って三河国を攻めた際、義高は平井久右衛門らとともに梅ヶ坪城を攻めた。戦ははじめ激しい弓戦になり、その後は城兵が打って出て激しい白兵戦となった。義高も自ら先陣を切って奮戦したが討死した。平井久右衛門はその強弓を敵味方から賞賛され、信長から褒美を与えられた。


前野則義 前野義詮

 尾張国の土豪・前野家に生まれる。則義は前野義康の子で、通称は九郎兵衛。覚然坊から棒術を習った前野宗吉(小坂雄吉)の弟子とされている。前野家文書『武功夜話』によると、この宗吉は則義の従兄弟である。墨俣一夜城築城の頃から前野長康に仕え、一度も出陣命令に従わなかったことはないという。また、則義はよく弟の前野義詮と前野家屋敷に行き、『武功夜話』の著者である吉田雄翟とともに語り合った仲であったという。
 また、関ヶ原の戦いの際には西軍につき、前哨戦である合渡川の戦いで前野忠康隊の一員として戦い、奮戦したが最期は戦死したという。 

 尾張国の土豪・前野家の前野義康の次男に生まれる。前野家に仕えた家臣で、通称・清助。兄は関ヶ原の戦いで前野忠康とともに戦って戦死した前野九郎兵衛(則義)。九郎兵衛とともに前野宗吉の弟子となって棒術を教わった。戦場でもその棒術が役に立ち、凄まじい槍働きを魅せたという。前野宗吉は織田信雄の家臣であり、義詮の父・義康とともに織田家に仕えていた。兄の九郎兵衛や吉田雄翟(前野宗吉の孫)と仲がよく、3人で前野家屋敷に集まって語り合うことが多かったという。
 父の妹は土方信治の室となり土方雄久を産んだ。そのため義詮は土方雄久の従兄弟にあたる。父の従兄弟で義詮の主君である前野長康のもとで出石城家老にまで出世した。長康が軍監として朝鮮に出陣した際には、長康に従って出陣し、幸州山城の戦いなどに参戦した。
 長康が秀次事件で関白秀次を弁護して連座切腹となった際には、追い腹を禁じられ、京都・伏見の六漢寺にて長康が切腹する際の介錯を努めた。このときから身分を隠すために野田義詮を名乗った。その後、浪人ののちに出家して常円と称す。主君・長康を弔うために、尾張国丹羽郡前野村に草庵を結んだ。『信長公記』の著者として知られる太田牛一とは気の合う人物だったという。長康に関する資料を持っていたため、吉田雄翟が『武功夜話』を書き始めると、義詮もそれに協力して編集に参加したという。