清和源氏

G139:菅沼資長  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 土岐光衡 ― 土岐頼貞 ― 土岐頼忠 ― 菅沼資長 ― 菅沼定盈 G139:菅沼定盈

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菅沼定盈 菅沼定仍

 野田菅沼氏3代目。弘治2年(1556年)、父の戦死により家督を継ぎ、今川氏への忠勤に励む。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦い以降は松平氏に帰属。従兄弟の西郷清員と共に、家康への忠節を尽くし続けた。
 ところが転属当初は、義元を失った後も今川氏の東三河での支配力は残っており、永禄4年7月29日(1561年9月18日)、今川方から野田城を攻囲された定盈たちは抗いきれず、勧告を受け入れて開城降伏。隣郡八名郡の親戚・西郷氏の許(高城砦)に逃れて雌伏する。
 雪辱の機は早くに訪れ、翌永禄5年6月2日(1562年7月13日)には野田城を夜襲。城代・稲垣半六郎を討ち果たし、残存兵を退散させたため奪回できた。ただし、野田城の損壊は甚大で、防御力の劣る大野田城を手直しした上で仮本拠と定め、同時に野田城の修築にも努めている。
 三河から今川勢を一掃し、さらに遠江国攻め入りを画策する家康の意向を酌み、永禄11年(1568年)には、遠江侵攻に先立って敵方の懐柔工作に携わり、遠江引佐郡井伊谷の同族・菅沼忠久の調略に成功している。その後、同年12月からの遠州侵攻に従軍、井伊谷の南方・刑部城攻略で功を挙げた。
 家康に従い続け、今川氏の圧力から解放された定盈ではあったが、元亀2年(1571年)以降、今度は甲斐武田氏による三河侵攻が活発化。この春、南下してきた武田氏配下・秋山信友に対し、隣郡八名郡の親戚・西郷氏や亡父・定村の妹婿となった設楽貞通と共闘し、一時は武田軍を退けたが、田峯菅沼氏を使って菅沼氏の各支族に降伏を促す調略に切り替えた秋山と武田信豊率いる武田軍から標的にされ、同年4月28日(5月31日)、大野田城から退散せざるを得なかった。
 元亀4年(1573年)正月、前年末の三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄が再び来攻。野田城の戦いである。この時の定盈は、防備を強化した野田城に立て籠り1ヶ月の抵抗を示したが、水の手を断たれたために、2月15日に開城降伏して捕らわれた。武田軍は、この攻城戦に勝利しながら西上を断念し、信濃国を経由して帰国の途についている。同年3月の人質交換で家康への帰参が叶った定盈は、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに参戦。同月21日(7月9日)の早朝、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊の一員として戦功を挙げ、武田軍への雪辱を果たしている。
 関東への移封では、上野国阿保に1万石で配される。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、江戸城留守居役。戦勝によって伊勢国長島2万石に加増転封。慶長9年7月18日(1604年8月13日)に死去。子女12人に恵まれた子福者ではあるが、竹千代の幼名を継がせた長男には先立たれている。そのため、2男の菅沼定仍が家督を継いでいる。
 菅沼一族の支流ながら、武田軍に捕らわれることがあっても、一度も家康に弓を引くことが無かった定盈の功績を高く評価され、徳川政権下での子孫は同族の中で最も繁栄している。

 天正4年(1576年)、菅沼定盈の次男として三河野田で生まれる。父の隠居で家督を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは駿河興国寺城や駿府城,美濃岐阜城の守備を担当し、その功績により慶長6年(1601年)6月、1万石加増の2万石で伊勢長島藩主として移封された。
 しかし生来から病弱の上、父や正室に先立たれるという不幸も追い討ちをかけた。このために重病に倒れて療養していた最中の慶長10年(1605年)10月25日、京都で死去した。享年30。継嗣が無かったため、弟の定芳が養子として跡を継いだ。

菅沼定昭 菅沼定実

 寛永2年(1625年)、丹波亀山藩の初代藩主(当時は近江膳所藩主)・菅沼定芳の長男として膳所で生まれる。嫡出の姉2人とは違い、庶出であった。寛永17年(1640年)、従五位下・左近将監に叙位・任官される。
 寛永20年(1643年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、異母弟の定実へ2000石、定賞へ1100石の知行地をそれぞれ分与し、4万1100石から3万8000石にまで直轄領が減った。
 正保4年(1647年)9月21日、丹波亀山にて死去した。享年23。正室はまだ居なかった時期での不幸であったらしい。側妾も確認されておらず、嗣子もないために無嗣改易となった。翌年閏正月に弟の定実に1万石が与えられ、名跡相続は許された。

 交代寄合の初代新城領主。母は父の継室・三次一任の養女(一任の孫娘)。丹波亀山では、総石4万1100石から2000石を分給されていたが、異母弟・定賞へも1100石を分与されている。
 正保4年9月21日(1647年10月18日)、藩主である長兄・左近将監定昭が死去。兄に嗣子は無く、また定実ら弟達も兄の継嗣と登録されていなかったため、菅沼氏は一旦無嗣改易とされる。
 のちに、家康を支え続けた菅沼定盈(定実らの祖父)の功績を鑑みた幕府から、特別の計らいを受ける。定実は幕府から改めて1万石を拝領。封地は祖先に縁ある三河国設楽郡新城と定められた。この1万石ならば大名である所を7000石のみ自領とし、残り3000石を弟の定賞に分知。交代寄合となった。
 新城に封された定実は茶人としても知られるなど、風流を愛する人物だった模様で、居館に近い豊川の畔に桜の木を植えさせている。それが現代では桜淵公園として、奥三河の桜の名所として知られるようになっている。

菅沼定志
 交代寄合・菅沼定邦の婿養子となり、文政4年(1821年)家督を継ぐ(三河国新城領主)。文政12年(1829年)大番頭となり、天保12年(1841年)6月24日より駿府城代,西丸側衆,本丸側衆,大坂城在番(東大番頭)などを歴任した。大坂城在番在職時の天保8年(1837年)2月に大塩平八郎の乱が起こり、同職(玉造口在番)の遠藤胤統とともにこれを鎮圧した。安政2年(1855年)に家督を次男の盈富に譲り隠居ののち、江戸深川に住し、宗徧流の茶事を嗜み、五世四方庵を継ぎ遊鴎または蓬葎齋と号した。また絵も嗜み、隺州とも号した。慶応2年(1866年)に没した。