<藤原氏>北家 閑院流

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三条実行 三条公教

 異母妹に鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇・後白河天皇生母の待賢門院があり、その関係から当初、弟の徳大寺実能とともに崇徳上皇に近侍し、近衛天皇生母の美福門院得子とその一派に対抗したとされる。保延6年(1140年)における左大将の人事に当たっては、崇徳上皇の推薦によりその候補に上ったが、治天の君である鳥羽法皇の意思により退けられる(左大将は源雅定に決定)。
 くだって久安5年(1149年)には、再び崇徳上皇や藤原頼長らの支援を得て、右大臣に登用された。さらに翌年には太政大臣に昇進している。
 しかし閑院流は、久寿2年(1155年)の頼長の失脚や、その翌年の鳥羽法皇死去などを経て、最終的には崇徳上皇方から離反した。このため、結果として保元の乱の後もその家格を維持し、実行の後裔は清華家の一つ三条家として繁栄した。

 母方の祖父・藤原顕季の引き立てで13歳で鳥羽天皇の侍従となった公教は、天皇が寵愛する従兄弟の美福門院(顕季の孫娘)との関係を利用して31歳の若さで参議として公卿に列した。退位して院政を開始した鳥羽法皇も公教の質実で勤勉な態度を高く評価して院庁の執事別当として裁判・行政の中枢を任せた。
 久寿2年(1155年)、美福門院所生の近衛天皇が急死すると、権大納言であった公教は鳥羽法皇,関白藤原忠通らごく数人と秘密裏に会議を開き、近衛天皇の異母兄・雅仁親王(後白河天皇)の即位を決定した。翌年、鳥羽法皇の崩御直後に保元の乱が起こると、公教は忠通・信西とともに後白河天皇の傍に近侍した。乱で天皇方が勝利すると、延期されていた鳥羽法皇の葬儀を執り行い、また信西の勧める記録所復興に賛同してその長官に就任した。これらの功績が評価されて保元2年(1157年)に内大臣(前年任ぜられた左大将と兼務)に就任している。
 平治元年12月(1159年1月)に勃発した平治の乱においては、一旦は政局を手におさめた藤原信頼に気づかれないように二条天皇を内裏から脱出させて平清盛がいる六波羅に御幸させる工作を行った。これが信頼失脚と藤原経宗らの天皇親政派の勝利を決定づけた。だが、その翌年に58歳で父の実行よりも先に急逝した。