<藤原氏>北家 閑院流

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三条公房 三条実親

 鎌倉時代初期から前期にかけての公卿。浄土寺相国と呼ばれ、三条家が清華家となる基礎を築いた。
 寿永2年(1183年)正月に叙爵。侍従を経て、文治5年(1189年)従四位下・左近衛中将、建久6年(1195年)7月に蔵人頭に叙任され、同年11月に従三位に叙せられ公卿に列す。正治2年(1200年)3月に権中納言に任ぜられる。
 以後、昇進して、建保3年(1215年)12月に内大臣となる。建保6年(1218年)、順徳天皇のもとで従一位・太政大臣に叙任される。承久3年(1221年)承久の乱後の12月に上表して致仕。嘉禎元年(1235年)9月に出家し法名を空寂とした。建長元年(1249年)8月16日薨去。享年71。
 傍若無人の振る舞いを行い、世間の人々から「おそろしからぬ太政入道」と呼ばれたという。ある時、申し上げるべき事があり今出川第を訪問したが、牛車に乗ったまま邸宅に入って中門廊に車を寄せると、自分自身の手で裏無(草履の一種)を取り出して履き、そのまま堂上に上がり込んで公卿に対面したという。 

 白川、又は後三条と号す。建久10年(1199年)従五位下に叙せられる。元久2年(1205年)には右近衛少将に任ぜられる。承元2年12月(1209年1月)に右近衛中将に転じ、承元5年(1211年)従三位に叙せられ公卿に列した。建暦2年(1212年)越前権守を兼ね、建保2年(1214年)正三位に進む。建保5年(1217年)土佐権守を兼任。建保7年(1219年)権中納言に任ぜられ、中宮権大夫を兼帯、承久2年(1220年)従二位に叙せられる。承久4年(1222年)正二位に昇叙。元仁元年12月(1225年2月)には中納言に転じ、元仁2年12月(1226年1月)さらに大納言に任ぜられた。しかし、貞永元年(1232年)10月より籠居している。
 嘉禎4年(1238年)右大臣に任命される。仁治元年(1240年)従一位に叙せられるが、翌日上表して辞退した。仁治3年(1242年)正月4日、勘解由小路経光が叙位議にて執筆を務めることになった際、経光は実親の許に参って作法を習うなど、経光は数々実親を訪ねており、親交があった。建長5年(1253年)出家、弘長3年(1263年)薨去。享年69。

三条有子 三条公頼

 鎌倉時代の後堀河天皇の皇后。三条后。女院号は安喜門院。
 貞応元年12月(1223年1月)、16歳で5歳年下の後堀河天皇の女御として入内。翌年2月25日には中宮に冊立されるが、嘉禄2年(1226年)7月29日に女御・近衛長子が中宮に立后されるのを受け、同日皇后となる。天皇との間に子はなかった。安貞元年(1227年)2月に院号宣下を被り安喜門院と号した。寛元4年(1246年)9月剃髪。弘安9年(1286年)2月6日、80歳で崩御した。
 有子が入内した背景には後白河法皇の皇女である宣陽門院(覲子内親王)の意向が働いたとされる。父・公房が宣陽門院の執事であり、母方の祖母は宣陽門院の異父姉(平業房女・藤原範能室)と推測されるためである。しかし、入内後は子供に恵まれず、しかも公房と宣陽門院との関係も悪化した。このため、宣陽門院は自らの政治的立場の強化の意味も含めて新たな連携相手である摂関家の近衛家から長子を養女に迎えて入内させ、姪孫である有子を事実上切り捨てる形になったと考えられている。
 『徒然草』の百七段には「浄土寺前関白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞ」という一節があるが、この浄土寺前関白とは安喜門院の大甥にあたる九条師教のことである。時に辛い人物評をすることもあった作者の兼好法師も、安喜門院の教養の高さはこれを手放しで称賛していたことがそこには窺える。

 三条家は、転法輪三条家とも呼ばれる。家風は信仰心が篤く質素倹約を旨としたという。しかし他の公家同様、戦国時代に入ってからの生活はかなり苦しくなっていったようである。
 公頼は明応4年(1495年)、三条実香の息子として生まれた。永正11年(1514年)に権中納言、天文10年(1541年)に内大臣、天文12年(1543年)に右大臣、天文15年(1546年)には左大臣に任じられた。
 天文5年(1536年)3月、公頼は甲斐国国主・武田信虎の嫡男・晴信(後の信玄)の元服にあたり、京から勅使として赴いている。そして同年の7月に次女の三条の方が晴信の元へ輿入れした。しかし、三条家の家計は相変わらず苦しかったようで、そのため3女の如春尼を後に管領・細川晴元の養女としている。
 天文20年(1551年)8月頃には、ついに周防国の大内義隆を頼り下向している。三条家と大内家は古いつきあいで、文明11年(1479年)4月には公頼の祖父・三条公敦が周防の大内家を頼り下向している。しかし、公頼は天文20年(1551年)9月1日、大内家臣の陶晴賢の反乱(大寧寺の変)に巻き込まれ殺害された。 墓所は山口県大寧寺。
 公頼には息子がおらず三条家は断絶となるが、後に分家筋から三条実教(正親町三条公兄の子)、続いて三条実綱(三条西実枝の子)が三条家を相続した。

三条実綱 三条の方

 官位は正三位・権中納言、贈右大臣。主に106代・正親町天皇の代に朝廷に仕えた。三条家の分家である正親町三条家の分家・三条西家の三条西実枝の子として誕生。母は内大臣正親町三条公兄の娘。
 本家筋の三条家当主の公頼が周防国へ下向していた際に大寧寺の変に巻き込まれて殺され、嗣子もなかったため、三条家を相続した。永禄12年(1569年)に叙爵。その後、清華家当主として速い速度で出世し、幼くして侍従,左近衛中将などを務め、天正8年(1580年)までには正三位・権中納言となっていたが、その翌年に死去した。享年20。早世を惜しまれて、死後に右大臣を追贈された。兄公国の次男公広が三条家を相続した。

 本名は不詳。一般には三条の方,三条夫人などと称される。
 京都の三条邸で生まれる。駿河国の今川氏の仲介で天文5年(1536年)7月、武田晴信に嫁す。義信,黄梅院,信親,信之,見性院と、晴信との間に次々と3男2女をもうけた。武田家の近習衆のなかには警護等を務めていたと思われる御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ10人が付けられている。信親が先天的に、もしくは幼年期に失明し、また、1551年(天文20年)、父の公頼が大寧寺の変において殺され、1553年(天文22年)頃に信之が夭折、1565年(永禄8年)には義信が謀反に関わったとされ、東光寺に幽閉されて翌々年死去、1568年(永禄11年)、信玄の駿河侵攻のため黄梅院が離縁され、その翌年に病死するなど、度重なる不運に見舞われた。元亀元年(1570年)7月28日に死去、享年50。墓所は甲府市の円光院。
 円光院の葬儀記録には、快川和尚の三条の方の人柄を称賛する「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄さまとの夫婦仲も、むつまじいご様子でした」と記された記録が残されている。信仰に関しては、武田家に嫁ぐ時に持参したと伝えられている、三条家に伝わる木造釈迦如来坐像が現存して円光院に所蔵されており、彼女が向嶽寺に新寄進をしている記録が『甲斐国志』に残されている。本願寺の顕如の正室は三条の方の妹・如春尼であり、本願寺と信玄との同盟の裏には三条の方の尽力があったと考えられる。また、武田氏の家紋と、彼女が皇室から使用を許された菊花紋と桐紋が彫られた愛用の鏡が、円光院に所蔵されている。さらに、円光院に伝わる当時の史料『円光院寺伝』によると、信玄が信濃国駒場で臨終間近の時、病の床に馬場信春を呼び寄せ、安土桃山時代の高名な仏師・宮内卿法印康清に彫らせた、自分が日頃から信仰していた陣中守り本尊、刀八毘沙門・勝軍地蔵を託し、説三和尚に送り、円光院に納めてくれるように遺言したという。さらに自分の遺体も、円光院に3年間密葬させるよう遺言したという。この2体の仏像はその遺言通り、現在も円光院に所蔵されている。