<藤原氏>北家 閑院流

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三条実秀 三条実治

 三条家20代当主。108代・後陽成天皇から111代・後西天皇までの4代に亘って仕えた。
 慶長9年(1604年)に叙爵してから累進し、元和元年(1615年)に左近衛中将となったのを機に元服した。元和5年(1619年)に従三位となり公卿に列する。その後も権中納言,権大納言,踏歌節会外弁などを歴任。慶安元年(1648年)に内大臣に任ぜられた。同年辞職。承応元年(1652年)から翌年にかけて右大臣を務めた。明暦3年(1657年)に従一位に叙せられ、万治3年(1660年)から翌年にかけて左大臣を務める。
 長寿によって清華家の出世コースを順調にたどっていくことができた人物といえる。

 明暦元年(1655年)に叙爵。清華家三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛文8年(1668年)には従三位となり公卿に列している。権中納言,権大納言,神宮伝奏,踏歌節会外弁などを歴任。天和3年(1683年)には霊元天皇中宮・鷹司房子の中宮大夫となり、貞享2年(1685年)には右近衛大将を兼務。貞享4年(1687年)に中宮大夫を辞した。元禄6年(1693年)に内大臣に就任したが、同年のうちに右近衛大将と内大臣を辞職。さらに宝永元年(1704年)には右大臣となったが、やはりすぐに辞職している。宝永2年(1705年)に従一位を授与された。正徳5年(1715年)に左大臣となったが、やはりすぐに辞職。享保9年(1724年)に薨去。享年75。
三条実万 三条実美

 1811年(文化11年)、従三位に叙され公卿となる。1824年(文政7年)に権大納言に任じられる。1831年(天保2年)、議奏となる。1848年(嘉永元年)には武家伝奏となり、たびたび江戸に下って対米政策について江戸幕府と交渉した。1857年(安政4年)内大臣となるが、1859年(安政5年)には日米修好通商条約への勅許を巡り関白・九条尚忠と対立して、3月7日には左大臣・近衛忠煕とともに参内停止を命じられる。これに激怒した孝明天皇によって2日後に右大臣・鷹司輔煕と権大納言・二条斉敬を勅使として近衛・三条両邸に派遣して両名に参内の勅命を下した。これは長年朝廷の全権を握っていた摂関家が勅使となり、政治的に非力であった清華家出身の三条を出仕させるという公家社会始まって以来の出来事として衝撃を与えた。
 1859年(安政6年)4月に安政の大獄で謹慎の処分を受け、出家して澹空と号した。同年、病気危篤となり、従一位に叙され、10月に謹慎していた一条寺村で薨去。
 薨後の1862年(文久2年)に右大臣が追贈され、1869年(明治2年)には明治天皇より「忠成公」の諡を与えた。さらに、1899年(明治32年)には贈正一位に追陞された。


 安政元年(1854年)、次兄の公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年、国事御用掛となった。長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。
 文久3年(1863年)には、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移る(七卿落ち)。長州藩に匿われるが、元治元年(1864年)の第一次長州征伐に際しては、福岡藩へ預けられる。太宰府へと移送され、3年間の幽閉生活を送った。また、その途中に宗像の唐津街道赤間宿に1ヶ月間宿泊した。この間に、薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の高杉晋作らが太宰府の延寿王院に集まり、時勢を語り合った。この延寿王院には坂本龍馬も訪ねてきている。
 慶応3年(1867年)の王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。翌慶応4年(1868年)には副総裁。戊辰戦争においては、関東観察使として江戸へ赴く。明治2年(1869年)には右大臣、同4年(1871年)には太政大臣となった。
 明治6年(1873年)の征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷らの征韓派と岩倉具視や大久保利通らの征韓反対派の板挟みになり、岩倉を代理とする。明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて、内閣制度が発足したため、内大臣に転じた。
 明治22年(1889年)、折からの条約改正交渉が暗礁に乗り上げ、外務大臣の大隈重信が国家主義団体・玄洋社の団員に爆裂弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生した。進退窮まった黒田内閣は、1週間後の10月25日、全閣僚の辞表を提出した。ところが、明治天皇は、黒田清隆の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて、内閣を存続させた。この時点で憲法はすでに公布されていたが、まだ施行はされていなかった。諸制度の運用に関してはまだ柔軟性があり、天皇の気まぐれもまだ許容された時代だった。
 実美は明治2年(1869年)に太政官制が導入されて以来、実権はさておき、名目上は常に明治政府の首班として、諸事万端を整えることに努めてきたが、伊藤博文の主導する内閣制度の導入によって、これに終止符が打たれたのは、この4年前のことだった。
 伊藤が内閣総理大臣に就任したことに伴って、実美は内大臣に就任した後は、天皇の側近としてこれを「常侍輔弼」することになったのだが、そもそも内大臣府は実美処遇のために創られた名誉職であり、実際は彼を二階へ上げて梯子を外したも同然だった。  
 これに対して、かつて実美に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は、実美に対して強く抗議すべきであると進言したが、実美は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、尾崎に対して軽挙を戒めている。明治天皇が実美に首相を兼任させたのは、上記の実美の境遇を気の毒に思ったことが影響している。
 天皇が実美に下した命は「臨時兼任」ではなく「兼任」であり、しかも、その後は何の沙汰も下さない日が続いた。天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのは実に2ヶ月も経った同年12月24日のことだった。そのため、この期間はひとつの内閣が存在したものとして、これを「三條暫定内閣」と呼ぶことになった。しかし、やがて憲法が施行され、内閣総理大臣の「臨時兼任」や「臨時代理」が制度として定着すると、この実美による総理兼任の背後事情は、次第に過去の特別な例外として扱われるようになった。今日ではこの2ヶ月間に「内大臣の実美が内閣総理大臣を兼任していた」とはしながらも、それは「黒田内閣の延長」であって「実美は歴代の内閣総理大臣には含めない」とすることが研究の趨勢となっている。
 明治24年(1891年)、55歳で薨去。死の直前に正一位を授与(生前の正一位叙位は史上6人目・745年ぶり。また生前に正一位を叙位された最後の例である)。国葬をもって送られた。大正時代になって、京都御所に隣接した三条邸跡の梨木神社に合祀された。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。

東三条公恭 三条智恵子

 嘉永6年12月18日(1854年1月16日)に三条公睦の次男として誕生するが、生後まもなく父が早世。乳児であったことに加え、母の身分が低かったことにより、三条家は叔父の実美が嗣ぎ、公恭はその養嗣子となった。
 文久3年(1863年)、実美が八月十八日の政変により京から追放され三条家を義絶されたことに伴い、三条家の家督を相続する。しかし、慶応3年(1867年)に実美が罪を許され帰京したことで家督を返上した。
 慶応4年(1868年)3月、中御門経孝,毛利平六郎らと共にイギリスへ留学する。従者として尾崎三良が供をした。英語の修得に苦労したものの、1年につき300ポンド(従者には年150ポンド)の経費が支給され、大臣の息子としてヴィクトリア女王に謁見するなど厚遇を受ける。明治3年(1870年)には尾崎と共に大学に進学する。ところが、明治5年(1872年)11月に体調不良のため帰国する羽目になる。しかし、公恭は留学続行を希望、実美の要請もあって再度留学の許可がおり、明治7年(1874年)10月に再びイギリスに渡航する。しかし、2度目の留学は私費留学であり、学費の捻出に苦労する。尾崎の奔走によりようやく学費を捻出、さらに明治9年(1876年)に渡欧した井上馨や当時ドイツ特命全権公使だった青木周蔵が公恭の勉学への姿勢を認めて実美に助言したことから援助は増額される。一方、この頃から公恭には遊興で浪費する悪癖がつき始めていた。
 明治14年(1881年)に帰国後、実美は実子の公美を分家させ、明治16年(1883年)4月9日に公恭を公式に華族会館会員とする。正式に三条公爵家嗣子となった公恭は、同年8月17日には中堅華族合同で各国憲法講究会の設立を、同年11月20日には「金曜会」のメンバーと協議して会館議員選挙法の改正を協議するなど、活発に活動している。
 明治16年(1883年)4月13日には公恭は判事となり、7月5日に広島控訴裁判所詰めとなり、地方への視察なども熱心に行い業務に熱心であった一方、一時収まっていた浪費癖が再燃、義父の実美にたびたび注意を受けるようになる。やがて、公恭の花柳界遊びによる浪費は止まらない状況となった。尾崎の忠告も聞き入れない状況となり、尾崎は実美に廃嫡を進言。実美は躊躇したものの、ついに廃嫡を決断する。明治19年(1886年)6月25日、廃嫡処分となる。代わりに嫡子となった公美と入れ代わりで分家(東三条家)を継いだのは公恭の長男・実敏で、公恭は妻と共に東三条家の厄介となる。
 司法省を去った公恭はその後、英吉利法律学校(後の中央大学)でイギリス法やローマ法を講義し、明治22年(1889年)からは跡見女学校で英語の教師となるなど、教職や法律知識の普及に活路を見いだそうとしたが、相変わらず派手に遊興をする癖はなおらず、幾度も誓約を破る公恭に実美も愛想を尽かし、明治23年(1890年)7月15日、東三条家からも別家を余儀なくされ、妻,次男と共に平民籍に編入させられた。その後の公恭はひっそりと暮らしていたようであるが、動向は判然としていない。明治34年(1901年)1月26日、肺炎の悪化により死去した。葬儀も寂しいものだったという。

 明治24年(1891年)、閑院宮載仁親王と結婚する。載仁親王との間には篤仁王,恭子女王(安藤信昭夫人)、茂子女王(黒田長礼夫人),季子女王,春仁王,寛子女王,華子女王(華頂博信夫人、後に戸田豊太郎夫人)の2男5女が生まれた。
 王子王女の教育に熱を入れる一方、社会公共の事業にも精力を傾け、大日本婦人教育会や日本赤十字篤志看護婦人会の総裁を務めた。日露戦争の時には、愛国婦人会の総裁に就任した。

三条公美

 1882年(明治15年)に分家して華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵。1886年(明治19年)8月、東三条と改姓。同年10月16日、従兄弟・三条公恭が廃嫡されたことに伴い本家三条家に復籍し三条に改姓した。
 父の死去に伴い1891年(明治24年)3月7日、公爵を襲爵[。1900年(明治33年)4月26日、満25歳に達し貴族院公爵議員に就任し、死去するまで在任した。
 父の遺産は多くはなく、襲爵した時点で馬車を維持できなくなるほど家計が傾いていた。この状況を見て三条家に恩義がある尾崎三良が山縣有朋に掛け合い、宮内省から思召しとして5万円の公債を引き出すことに成功。公債の利子で馬車の維持が可能となった。その後、公美の倹約と宅地地価の上昇で、三条家は明治40年頃までに資産を5倍程度まで増加させている。