<藤原氏>北家 秀郷流

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足利成綱 足利家綱

 彼の事項は『吾妻鏡』にも詳しくは記されていない。ただ、父の成行が亡くなると、一族から養子の家綱を迎えて、その後を継いだと、記録に認めてあることから、父より先立って早世したと思われる。
なお、彼の娘は河内源氏の源義国の側室となり、新田義重(上野源氏祖)を産んだという。その娘も父同様に若くして没し、義国の正室とされる(諸説あり)藤原敦基(式家出身)の娘の養子として養育されたという。

 

 足利郡司で相撲人としても有名だった足利成綱の子として生まれるが、成綱が早世してしまい、祖父・足利成行の養子となる。家綱が成人するまでは一族の足利行国が藤姓足利氏の当主を代行したが、その後は家綱が藤姓足利氏の当主となった。そして、亡き父同様、家綱もまた相撲人として広く知られるようになり、その怪力と大柄な体格は、以降の子孫にも代々継承されていく。
 家綱も上野国との関係が深く、永久2年(1114年)8月、国衙領の雑物を押し取ったとして、上野国司が家綱を検非違使庁の中御門宗忠に告発している。家綱の在地における勢威が国司にも対処できない程であったことがうかがえるが、この時に郎党の監督責任を巡って源為義と源義国が争論しているので、家綱は河内源氏と主従関係を結んでいたと思われる。
 その後、源義国の家人となったが、滝口武者として京都へ上洛した際、同僚の滝口武者の小野寺義寛の嫉妬による讒言により謀反を企てていると疑いをかけられ、九州筑紫の大宰府の安楽寺に流罪となった。安楽寺は菅原道真が居住していた寺である。大宰府流刑中の元永元年(1118年)、朝鮮より「蛇慢」「我慢」「岩幕」という3人の力士が渡来し、日本の力士と試合を行い負けた方が貢物を行う取り決めとなったが、京の都にはこの3人の力士に敵う者がいなかった。そこで、家綱は京に呼び出され、後白河天皇に試合を行うように命を受けたが、流罪により体は衰え戦う気持ちも湧かないと断った。しかし、九州に戻った後にも後白河天皇の使いが家綱を訪れ、その熱心さに折れ、試合に出ることに決めた。国を背負って戦うことに相当な重荷を感じていたといわれるが、いざ試合が始まると大声を上げ、1人は踏み倒し、もう1人は持ち上げ投げ飛ばしてしまった。そして残った1人は、悪態をつき朝鮮へ帰っていった。後白河天皇はあまりのことに驚いたという。この華々しい活躍により功績が称えられ、九州太宰府からの帰郷が許されることとなり、同時に罪は小野寺義寛の讒言であったと認められたという。そして他にも褒美を与えると言われ、安楽寺の山門と天満宮を賜った。これらは帰郷の際に船に乗せ、江戸から川を登って佐野に入り、唐沢城中の天神沢に朝日森天満宮を建立。安楽寺の山門も唐沢城に持ち込んだといわれるが、元永3年(1120年)に現在の場所に移転したとされている。また帰郷の際、家臣の会場能登守が九州より片葉のあしを持ち帰り、佐野市内の湿地帯に植えたとされ、現在でも僅かではあるが現存している。流罪のきっかけとなった小野寺義寛とは、小野寺義寛から謝罪を行い、足利家綱はこれを許したと伝わっており、実際に孫娘を小野寺義寛に嫁がせている。
 康治元年(1142年)、開発領主である家綱と院北面として中央に人脈を有する義国の連携により、安楽寿院領足利荘が立券された。家綱が現地を管理する下司、義国が上位の預所として利益を分配したと見られるが、両者の協力関係は翌年には綻びを見せ始める。足利荘の南にある簗田御厨は家綱が荒木田利光を口入人として成立させた伊勢神宮内宮領であったが、康治2年(1143年)に義国が介入して、内宮の口入人を荒木田元定、外宮の口入人を度会彦忠とする二宮領として再寄進した。これを不服とした家綱は義国と争論するが、鳥羽院の裁定により義国が勝訴して「本領主」と認められ、家綱は簗田御厨の権益を奪われる形となった。もっとも両者の関係がすぐに破綻した訳ではなく、保元の乱では家綱の子・俊綱が下野国から八田知家と並んで源義朝配下として参戦している。
 康治2年頃から永暦2年(1161年)、家綱は下野梁田御厨の地頭職を巡り、源義国や源義康と約20年にわたって抗争している。源義国は足利成綱の娘婿であり、足利成綱の相続を巡っていた可能性がある。仁安2年(1167年)、嫡男の足利俊綱がある女性を凶害したことで足利荘領主職を得替となった際、足利市両崖山の足利城を離れ、能忍地の能忍寺に蟄居したと伝わっている。現在この場所には総合運動公園が出来てしまい遺構は残されていないが、公園設立以前は土塁などが残されていたという。また、能忍寺に移り住んだ際、朝日森天満宮を唐沢山西麓に移したというが、江戸時代には現在の佐野市天神町に移設された。安元元年(1175年)1月13日、足利俊綱は佐野市の赤見城に移り住んだが、家綱は能忍寺に残って余生を過ごしたと言われている。
 寿永2年(1183年)2月、志田義広が源頼朝を討たんと挙兵すると、家綱の嫡男・足利俊綱と孫・足利忠綱は呼応するが、小山朝政や小野寺道綱の策略によって志田義広は敗北し、藤原足利氏は戦わずして敗北してしまう。戦後の処理の中で、足利俊綱は死亡、足利忠綱は逃亡するが、源頼朝からは妻子含め本宅資材に関しては安堵が通達され、家綱は生き残った。寿永3年(1184年)5月14日には、栃木市岩舟町の住林寺で、足利俊綱の供養のために小野寺道綱が仏像を建立し、家綱は結縁した。死後は遺言により、佐野市の名菊山の岩窟に埋葬された。彼の武勇に肖ろうと、毎年命日になると多くの相撲人が墓参りに来ていたという。現在は採掘により岩窟は失われたが、祠は山の麓に移設され、家臣であったという大沢一族によって今もなお大切に守られている。

園田成光 園田秀政

 16世紀はじめ、園田成光は桐生城主・桐生重綱に攻められ、小倉鹿田の地を奪われた。園田氏の勢力では桐生氏に及ばず、成光は太田金山城主の横瀬国繁に応援を依頼して遺恨を晴らそうとした。国繁は園田氏と桐生氏とは系譜的に同族関係でもあり、同姓の好みをもって和睦を進めたが重綱は聞かず、却って兵を起して園田氏を討とうとした。成光の嫡子・秀光は横瀬国繁に援軍を求めると、一族を指揮して防戦につとめた。桐生勢は国繁に敗れて退去し、園田氏は危機を脱するとともに倉鹿田の地を回復したのである。
 以後、園田氏は横瀬氏に属するようになった。文明3年(1471年)、古河公方・成氏が国繁入道宗悦に与えた御書によれば、「薗田上下之庄知行不可有相違云々」とあり、薗田は新田(横瀬)に属したことが知られる。さらに、国繁入道は家督を業繁に譲ってのち薗田領吉沢郷に屋形を構えて隠居、園田氏は国繁入道の恩顧を受け入魂を深くしたという。成光のあとを継いだ秀光は横瀬業繁に属して、長享2年(1488年)、古河公方・成氏と管領・上杉顕定とが戦った武蔵国高見原の合戦において成氏に味方して出陣した業繁に従い、戦功を上げている。 

 天正2年(1574年)、右京亮秀政は由良成繁に属して谷山の合戦において上杉輝虎方として活躍、秀政の子・秀重は由良国繁と小田原北条氏との合戦において功名をたてた。その後、国繁は後北条氏に転じ、天正12年(1584年)、弟の長尾顕長とともに小田原に囚われの身となった。そして、天正18年(1590年)の小田原の陣において、国繁と顕長は後北条方として行動した。その結果、小田原開城後に国繁は所領を没収され、園田氏もともに所領を失い没落の憂き目となった。

 

牛込勝行 牛込重恭

 牛込氏は大胡成家からの系譜を『寛政譜』などで伝えているが、鎌倉時代など中世にみえる大胡一族の名とは全く異なるため、『大胡町誌』では、牛込氏の伝えていた先祖を尊卑分脈の系譜(大胡重俊~成家まで)に繋げただけではないかとしている
 大胡重行は後北条氏の北条氏康の招きを受け、大胡城から武蔵国牛込(現在の東京都新宿区)に移った。永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に、大胡民部が江戸牛込・比々谷本郷などを所領とするため、永禄年間には既に牛込にいたとされる。同地に赤城神社(現在は移転)を創建したと伝わる。牛込に移った大胡一族は勝行のとき牛込氏を称している。
 勝行の子・勝重の代に小田原征伐に遭い、のち徳川氏に仕えて旗本となった。牛込俊重は徳川忠長に配され、その処罰後一時的に他家預かりの身になっている。赦免後、俊重は500石の旗本となったが、次の勝正のとき無嗣断絶で改易された。勝正の弟・重恭は分家し、300俵のち500石を知行、その子・重義のとき1100石となり、この系統が幕末まで続いた。

 

 

 

 重忝は父・俊重がまだ徳川忠長に仕えていた元和7年(1621年)に生まれた。元服した後は、20余年間、書院番を務めていた。寛文3年(1663年)、42歳の時、ようやく目付に任命された。寛文11年(1671年)5月、50歳の時に長崎奉行を命じられ、着任する。
 長崎奉行には数々の役得があり、「1代が長崎奉行を務めるだけで、子孫は一生安楽に暮せる」と言われていた。その中には、「八朔銀」という現在の賄賂に等しい上納金があった。特に豪勢なものはオランダ商館からの贈り物で、贈り物を用意できるほど、オランダ商人は長崎貿易で利益を得ていた。幕府はこの利益を日本に取り戻そうと画策し、重忝は長崎奉行に任命された。
 着任してから、まず取り組んだことは長崎の庶民の風紀を正すことであった。重忝の御仕置は庶民を震え上がらせた。これ以降、長崎での犯罪は徐々に少なくなっていった。
 次に取り組んだのは今までの「相対貿易法」を変えることだった。これは明暦元年(1655年)に廃止された糸割符制に変わる取引法であり、糸割符仲間以外の商人でも、全員が自由にオランダ・中国の商人と取引できるというものだった。このため、買い付け価格が高騰し日本から大量の銀が流出した。そこで重忝は、寛文12年(1672年)に「市法貿易法」を制定した。内容は、オランダ・中国の商人と取引をするものは全員「市法会所」に所属すること、オランダ・中国の品物は会所が値段を査定し奉行が「指し値」を決定して会所が一括で買い取ること、これまでオランダ・中国にあった売買値の決定権は奉行に属することなどを定めた。この結果、以前より安値で取引ができるようになり、取引で仕入れた品物を他都市の商人に売却したため、莫大な利益が長崎に生まれた。また、重忝はこの益金で長崎市街の整備を行った。市街を80町に整備し、長崎奉行所を西役所と立山役所に分散。さらに、寛文3年(1663年)の寛文大火により焼失した長崎聖堂を再建した。
 シーボルトの鳴滝塾で知られる鳴滝の地名を京都の鳴滝にちなんで命名したのは重忝である。延宝8年(1680年)2月には、長崎の町中で俳諧・連歌を行う者を、それぞれ一夜ずつ奉行所に召し寄せ、歌や詩を作らせて鑑賞している。
 重忝が制定した「市法貿易法」により長崎の町民や商人たちに大きな利益がもたらされた。それを恩義に感じ、寛文12年(1672年)の9月26日、重忝が長崎北部の時津廻りで江戸に上った時、岩原郷の本蓮寺前から時津辺までのおよそ9kmにわたり大勢の見送りが続いたという。また、この見送りが慣例にもなったため、延宝4年(1676年)9月に重忝は商人たちに今年は派手な見送りはしないようにと厳命したほどであった。その一方、唐人やオランダ人の重忝に対する評価は悪く、「恥知らずで強欲の人」とみなされていた。
 貞享4年(1688年)、死去。