高天神城跡
たかてんじんじょうあと (Takatenjin Castle Ruins)
【C-SZ013】 探訪日:1988/5/3・2019/8/26
静岡県掛川市上土方嶺向
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではない。1191(建久2)年に土方次郎義政が城砦を築いたとの伝承があるが、確認できる文献も考古学的発見もなされていない。1471(文明3)年に今川氏親の重臣・福島正成が城主として高天神城に入城している。『高天神を制するものは遠州を制す』と称されるほど重要な城であり、武田氏と今川,徳川氏によって攻防が繰り広げられた。福島氏は1536(天文5)年の花倉の乱により没落し、その後は今川氏に服属した小笠原右京進春儀が城代となり、弾正忠氏興(氏清),与八郎長忠(信興)と続く。
1560(永禄3)年5月の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、武田信玄は徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、これにより今川氏は滅亡し小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興,長忠父子は徳川氏の家臣となった。しかし、まもなく武田,徳川両氏は敵対関係に入り、駿河,遠江の国境近くにある高天神城はその角逐の舞台となる。
1571(元亀2)年3月、武田信玄は兵25,000騎で高天神城を包囲するが、小笠原氏は城兵2,000騎で籠城し武田軍を撃退した。信玄の死後、その子・勝頼も1574(天正2)年に高天神城を攻撃,猛攻を加え二ノ丸を陥落させた。城主・小笠原長忠は織田,徳川の援軍を期待したが、徳川単独で援軍を出す力はなく、織田軍も各地の一向一揆の対処のために援軍が送れず、絶望した長忠はついに降伏し高天神城は開城した。長忠は武田方に臣従を誓い、ともに籠城していた大須賀康高などは逃がされて浜松まで落ち延びた。信玄でも陥とせなかった高天神城を落城させたことは、当時の武田勝頼の武名を大きく上げることとなった。
1575(天正3)年5月、武田氏は長篠の戦いで大きな損害を受ける。勝頼は高天神城の拡張を行って縄張りを西側の峰の範囲まで広げ、城代として今川旧臣の岡部元信を任命した。一方、徳川家康は二俣城,諏訪原城などを奪取することで武田氏の補給路を封じ、さらに付城として横須賀城をはじめ6つの城砦を築いて締め付けを強化した。
そして、1580(天正8)年9月、徳川軍は満を持して兵5,000騎で高天神城を包囲し攻撃。岡部元信は1,000程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた(城側は降服を申し出るも受け入れられなかった)。勝頼も東西に敵を抱える状況で援軍を送れず、ついに翌1581(天正9)年3月、逃亡する城兵が続出し城代・岡部元信以下ことごとくが討死して高天神城は陥落した。武者奉行の孕石元泰は切腹させられている(家康には孕石に対し今川氏の人質時代の遺恨があった)。また、軍監の横田尹松は西側の尾根を伝って脱出に成功し、甲斐の勝頼に落城の事実を報告している。高天神城は焼き払らわれ廃城となり、以後は横須賀城が拠点となった。
高天神城は西の山塊から東へ伸びた丘陵の標高132mの高天神山に築かれている。城は大きく東西二つの峯に分かれており、本丸のある東峯が古く垂直に近い急峻な地形を利用して土塁などで防御する構造であるが、西峯はその後の拡張によって改修された部分で大堀切や横堀によって防御する構造となっている。東峯は南側に大手門、北側が搦手門を配する。本丸の南東に御前曲輪があり低い段差で繋がっている。また、本丸の北側の壁面には大河内源三郎政局が8年以上にわたり幽閉されていた「大河内石窟」がある。一方、西峯は高天神社の境内となっている所が西の丸で、その東に井戸曲輪、南西尾根に馬場平、北下に二の丸,堂の尾曲輪,井楼曲輪と続く。なお、馬場平の先に続く尾根が横田尹松の脱出ルートとされる。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(1975年10月16日指定) |
関連時代 | 鎌倉時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1191年 | 1471年 | 1536年・1571年・1574年・1580年・1581年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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土方義政 | G*** | 福島正成 | G127 | 小笠原春儀 | G438 |
小笠原氏興(氏清) | G438 | 小笠原長忠(信興) | G438 | 武田信玄 | G425 |
徳川家康 | TG01 | 武田勝頼 | G425 | 大須賀康高 | H440 |
岡部元信 | F009 | 孕石元泰 | **** | 横田尹松 | G742 |
大河内政局 | G*** |
築城年代,城主(城代)を調べていくと、いくつかの説がありはっきりしない。確かなのは1571年に武田信玄が来襲した頃からだろう。武田勝頼は父信玄が落とせなかった高天神城を落とし名声を上げたが、のちに高天神城が窮地に陥った時に援軍を送れず、そこを信長によって武田氏滅亡のネガティブキャンペーンのネタにされてしまったことはひじょうに皮肉なことである。
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▲搦手口からの登城
▲搦手門跡
▲三ヶ月井戸
▲三ヶ月井戸
▲鐘曲輪跡から本丸跡へ
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▲的場曲輪跡
▲本丸跡の土塁
▲本丸跡
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▲城址碑
▲御前曲輪跡と模擬天守跡
▲本丸跡からの眺望
▲本丸跡からの眺望
▲元天神社
▲土塁
▲大河内政局石窟
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▲かな井戸(井戸曲輪跡)
▲西の丸跡
▲高天神社
▲高天神社(1988年撮影)
▲高天神社
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▲袖曲輪跡
▲二の丸跡
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▲堀切跡
▲隍堀跡
▲隍堀跡
▲堂の尾曲輪跡(1988年撮影)
▲【転載】井楼曲輪跡
▲馬場平(1988年撮影)
▲馬場平からの眺望(1988年撮影)
▲甚五郎抜け道(1988年撮影)
▲【転載】犬戻り猿戻り
▲東峯へ戻る
▲三の丸跡
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▲着到櫓跡
▲追手門跡
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▲追手からの登り口(南口駐車場)
▲遠景
▲遠景