広瀬山城跡
ひろせやまじょうあと(Hiroseyama Castle Ruins)
【C-NR077】探訪日:2025/6.29
奈良県山辺郡山添村広瀬字水頼
【MAP】
〔駐車場所〕県道785号線(山添桔梗が丘線)脇に路駐させていただく。
築城年は定かではなく、築城者,城主もはっきりしない。ただ、広瀬村には岩井久右衛門と岩井奥助という2人の地侍がいたとされ、これらの人物が城主であった可能性が考えられている。城の縄張りは明らかに東の名張・伊賀方面を意識しており、天正伊賀の乱にも筒井氏側の重要な拠点として機能した可能性がある。
城は広瀬城の北約800mの名張川を見下ろす標高230m,比高60mの山に築かれ、最高部がⅢ郭で北側を堀切で遮断している。Ⅲ郭から南東に向かって大堀切を隔てて土塁状のⅡ郭がある。Ⅱ郭を頂点とし翼を広げたように「くの字」に尾根が降っていく。その湾曲の内側下方にはかなり広いⅠ郭(主郭)があり、ここに居館があったとも考えられる。主郭南側には竪堀がみられる。また、Ⅱ郭から南に下りた尾根の先には、この城の特徴ともいえる堀切と横堀,竪堀が入り組んだ遺構が残されている。さらに、そこから大岩が点在する南へと降りるとⅣ郭がある。ここは面積は広いが比高も低く防御性も低いため、兵の駐屯地であったかもしれない。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代? |
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関連年号 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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城跡入口に向かう途中、民家の辺りで地元の方に声をかけられた。城跡がある山の持ち主であったようで、子供頃から城跡とは知らず、よく登って遊んだという。その後、城跡に興味を持たれて名張方面などの城跡の測量などにも参加されていたとのことだが、やはり城跡が次第に無くなっていくことを嘆いてみえた。同感である。
広瀬山城縄張り図(『奈良の城郭』に加筆)