所在地 |
No. |
史跡名 |
ワンポイント・メモ |
指定 |
名古屋市 |
B‐AC001a01 |
桶狭間古戦場: 鷲津砦跡
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【C-AC028】鷲津砦跡参照 |
国 |
B‐AC001a02 |
桶狭間古戦場: 丸根砦跡
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【C-AC029】丸根砦跡参照 |
国 |
B‐AC001a03 |
桶狭間古戦場: 善照寺砦跡
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【C-AC032】善照寺砦跡参照 |
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B‐AC001a04 |
桶狭間古戦場: 丹下砦跡
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【C-AC083】丹下砦跡参照 |
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B‐AC001a05 |
桶狭間古戦場: 中島砦跡
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【C-AC084】中島砦跡参照 |
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B‐AC001a06 |
桶狭間古戦場: 釜ヶ谷
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1560年5月19日、織田信長軍2,000が突撃の機を窺って身を潜めたところ。大雷雨が止んだ頃に一気に今川本陣の右翼に攻め込んだ。現在の大学駐車場が釜ヶ谷で、信長軍が駆け上った坂は「信長坂」と名づけられている。 |
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B‐AC001a21 |
桶狭間古戦場: おけはざま山今川本陣
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1560年5月19日、沓掛城を出立した今川義元本隊4,000のうち約1,500人がおけはざま山の中腹に本陣を置いた。本陣跡は石碑がある坂の上方とされるが、位置は確定できているわけではない。 |
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B‐AC001a22 |
桶狭間古戦場: 瀬名氏俊陣地跡
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1560年5月17日、今川義元の本陣設営のために瀬名氏俊の先発隊約200が着陣した所。陣所はこれより奥の東西約15m,南北約38mの高所にあったとされる。現在、遺構は残されていない。 |
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B‐AC001a23 |
桶狭間古戦場: 井伊直盛陣地跡
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1560年5月19日、桶狭間に着いた今川軍のうち井伊直盛隊1,000余名が陣を張った丘陵である。織田軍に取り巻かれたことから「巻山」と名付けられた。井伊直盛はこの戦いで戦死した。 |
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B‐AC001a24 |
桶狭間古戦場: 高根山
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1560年5月19日、今川軍のうち松井宗信隊約1,500は前衛として高根山から幕山にかけて陣を張った。また、中島砦から陽動作戦で出てきた佐々政次,千秋季忠ら300の兵と激戦の末、両将の首をあげている。高根山には有松神社は建つ。 |
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B‐AC001b01 |
桶狭間古戦場: 田楽坪(義元戦死地)
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1560年5月19日、今川義元が討たれたところとされる。服部小平太が一番槍をつけたが、義元に膝を斬られた。そこへ助太刀に入った毛利新介が義元を組み伏せ首級を挙げた。義元の戦死により織田軍の勝利に終わった。 |
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B‐AC001c01 |
桶狭間古戦場: 戦評の松
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1560年5月19日、桶狭間の戦いで今川方の瀬名氏俊が部将を松の根元に集めて戦いの評議を行った所とされる。現在の松は植樹された3代目のものである。 |
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B‐AC001c02 |
桶狭間古戦場: 首検証跡〔長福寺〕
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1560年5月19日、桶狭間の戦い後、織田軍に捕らえられた今川義元に仕える茶坊主の林阿弥が、今川方武将の首検証を命じられた場所とされる。長福寺の境内にある。 |
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B‐AC001c03 |
桶狭間古戦場: 血刀濯ぎの池〔長福寺〕
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1560年5月19日、桶狭間の戦い後、織田軍が血の付いた刀をこの池で濯いだとされる。長福寺の境内にある。 |
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B‐AC001c04 |
桶狭間古戦場: 七ツ塚
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1560年5月19日、桶狭間の戦いでの戦死者を埋葬した所。山裾の沿って七つの穴が一列に掘られたため七ツ塚または石塚と呼ばれたという。現在は塚の一つが残る。 |
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B‐AC006 |
稲生原古戦場 |
1556年に織田信秀の跡を継いだ信長とそれを不服とする弟の信行,林秀貞,柴田勝家らが戦った所。 |
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豊明市 |
B‐AC001c05 |
桶狭間古戦場: 戦人塚
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1560年の桶狭間の戦いで戦死した2,500余人を埋葬供養した塚とされる。また、織田信長が部下に今川軍の死者を検分され、その遺骸を集めさせた塚ともいわれる。 |
国 |
B‐AC001b02 |
桶狭間古戦場伝説地 |
1560年5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した所とされる。史跡として七石表,弔古碑などがある。今川義元の墓碑は、通りかかる旅人が弔古碑を墓と間違えるため、1876年にあらためて建てたものという。 |
国 |
一宮市 |
B‐AC005 |
浮野古戦場 |
1558年に織田信長,織田信清と織田信安が戦った所。信長勢の勝利に終わり、信安勢を岩倉城まで追い詰めている。 |
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犬山市 |
B‐AC002b01 |
小牧長久手古戦場: 八幡林合戦地跡
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1584年の小牧長久手の戦いにおける緒戦の地。徳川軍の勝利に終わる。 |
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B‐AC002c01 |
小牧長久手古戦場: 野呂塚
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八幡林の戦いで大敗した森長可の退却にあたって奮戦し壮絶な死を遂げた野呂助左衛門宗長と子の助三郎宗政を顕彰する塚。 |
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B‐AC002a01 |
小牧長久手古戦場: 青塚砦跡
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大型前方後円墳であるが、羽柴方の森長可が改修し砦として使用した。 |
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尾張旭市 |
B‐AC002b02 |
小牧長久手古戦場: 白山林合戦地跡
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第4陣・羽柴秀次隊が白山林で朝食をとっていたところを追走してきた徳川軍が奇襲し秀次勢は潰滅した。 |
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小牧市 |
B‐AC002a02 |
小牧長久手古戦場: 二重堀砦跡
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秀吉方の日根野備中守弘就,弟の弥次右衛門以下2千の兵が布陣した砦。小牧山城に対する最前線に位置する。 |
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B‐AC002a03 |
小牧長久手古戦場: 田中砦跡
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羽柴方の堀長政,蒲生氏郷,加藤光泰らが守備した砦。三ツ山古墳群跡が利用された。 |
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B‐AC002a04 |
小牧長久手古戦場: 小松寺砦跡
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羽柴秀次,丹羽長重を守将とする8千の兵が布陣する秀吉軍の主陣地であった。 |
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B‐AC002a05 |
小牧長久手古戦場: 久保山砦跡
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秀吉方の丹羽長秀,蜂屋頼隆,金森長近ら3千の兵が布陣した砦。 |
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B‐AC002a06 |
小牧長久手古戦場: 岩崎山砦跡
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秀吉方が岩崎山を利用して築いた砦で稲葉一鉄,貞通親子らが4千の兵を率いて布陣した。 |
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B‐AC002a07 |
小牧長久手古戦場: 蟹清水砦跡
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徳川家康,織田信雄方が丹羽長秀が建てた屋敷を修復して築いた砦。守備は交番とした。 |
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B‐AC002a08 |
小牧長久手古戦場: 宇田津砦跡
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徳川家康,織田信雄方が築いた砦である。松平氏の兵1500が布陣した。現在は住友理工(株)敷地内。 |
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春日井市 |
B‐AC002a09 |
小牧長久手古戦場: 田楽砦跡
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徳川方が築いた東端に位置する砦。池田恒興によって攻め落とされた犬山城からの敗走兵らが守備した。 |
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長久手市 |
B‐AC002a10 |
小牧長久手古戦場: 色金山
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岡崎侵攻する秀吉方を追って進軍してきた家康,信雄本軍が陣を置き、軍議した所。 |
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B‐AC002a11 |
小牧長久手古戦場: 御旗山
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徳川家康は戦況を見て御旗山に進軍し頂上に金扇の馬標を立てた。後年、富士浅間神社が祀られている。 |
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B‐AC002a12 |
小牧長久手古戦場: 堀秀政本陣地跡
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第3陣だった堀秀政が兵3千を率いて東進中に第4陣の秀次隊の壊滅を知り、引き返して陣を敷いた所。 |
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B‐AC002b03 |
小牧長久手古戦場: 桧ヶ根合戦地跡
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秀次勢を撃破し突入してきた徳川軍を堀秀政隊が返り討ちにした。秀吉方が勝利した唯一の合戦地。 |
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B‐AC002b04 |
小牧長久手古戦場: 仏ヶ根決戦地跡
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孤立した第1陣・池田恒興隊と第2陣・森長可隊が徳川軍と激戦を繰り広げた決戦の地。秀吉方の主将が討死している。 |
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B‐AC002c02 |
小牧長久手古戦場: 勝入塚
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池田恒興は永井直勝の槍を受けてこの地で討死した。 |
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B‐AC002c03 |
小牧長久手古戦場: 庄九郎塚
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池田之助は父の恒興の戦死を知り、敵陣へ突入し安藤直次にこの地で討たれた。 |
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B‐AC002c04 |
小牧長久手古戦場: 武蔵塚
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森長可は井伊直政隊と激突し鉄砲足軽の狙撃で眉間を撃ち抜かれこの地で即死した。 |
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B‐AC002c05 |
小牧長久手古戦場: 木下勘解由塚
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木下勘解由利匡は徒歩で敗走する羽柴秀次に自分の馬をへ与え、自らは追ってきた敵と奮戦し戦死した。 |
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B‐AC002c06 |
小牧長久手古戦場: 伴盛兼墓碑
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伴盛兼は徳川方の武将で仏ヶ根の決戦で討死。墓碑は色金山の中腹に領地であった遠州気賀の方を向けて建立されている。 |
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B‐AC002c07 |
小牧長久手古戦場: 首塚
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安昌寺の雲山和尚は里人達と共に敵味方の別なく屍を集めて埋葬し塚を築いて供養した。 |
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B‐AC002c08 |
小牧長久手古戦場: 耳塚
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勲功の証としてそぎ取られた討死者の耳を埋めて供養した塚とされる。 |
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B‐AC002d01 |
小牧長久手古戦場: 血の池
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仏ヶ根の決戦後に渡辺半蔵守綱らが血の付いた刀や槍を洗った池。現在は池はなく公園となっている。 |
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B‐AC002d02 |
小牧長久手古戦場: 鎧掛の松
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徳川軍が血の付いた刀や槍を「血の池」で洗うときに鎧(甲冑)を掛けた松とされる(4代目)。 |
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知多郡東浦町 |
B‐AC014 |
石ヶ瀬川古戦場 |
1558年から1561年にかけて、石ヶ瀬川流域で3度にわたり繰り広げられた織田信長・水野信元と今川義元・松平元康との合戦である。勝敗つかず、和睦となった(この間に義元は戦死)。 |
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西尾市 |
B‐AC009a |
善明堤(鎧ヶ淵)古戦場 |
1561年に今川氏から独立した松平元康が三河統一過程において吉良義昭と戦った所。吉良の勝利に終わる。 |
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B‐AC009b |
松平好景戦死の地 |
1561年、善明堤の戦いで深溝城主の松平好景が戦死した場所とされる。秋葉山常夜燈から100mほど先の「継植松碑銘」の辺りとされる。 |
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B‐AC010a |
藤波畷古戦場 |
1561年、吉良義昭は藤波畷で家老の富永忠元を討取られたことで戦意を失い、松平元康に降伏し東条城を明け渡した。 |
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B‐AC010b |
富永忠元一族討死の地 |
1561年、藤波畷の戦いで吉良家の家老・富永忠元の一族が、松平方の本多広孝の兵に討取られた場所。1717年に村民たちにより伴五郎地蔵が祀られている。 |
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豊田市 |
B‐AC013 |
車坂古戦場 |
1563年、松平元康は三河平定の一環として2,000の兵を率いて寺部を攻め、車坂,水間で鈴木日向守と会戦した。元康は、烏帽子岩に掛けて采配を振るったともいう。 |
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岡崎市 |
B‐AC003 |
小豆坂古戦場 |
三河側の今川氏,松平氏連合と尾張から侵攻してきた織田氏の間で1542年と1548年の2度にわたって繰り広げられた小豆坂の戦いの所。 |
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B‐AC007 |
渡古戦場 |
1547年、三ツ木城主の松平信孝と織田信秀の連合軍が岡崎城主の松平広忠軍と渡河原で戦った。 |
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B‐AC008 |
雨山古戦場 |
1556年、雨山領主の阿知定直が今川氏に叛いて織田氏に寝返ったため今川方の本多忠俊らと戦いになった。 |
市 |
B‐AC009c |
板倉好重戦死の地 |
1561年の善明堤の戦いで、板倉好重が深溝城主・松平好景とともに吉良義昭の軍に包囲され戦死した場所とされる。 |
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B‐AC010a |
井田野古戦場 |
勢力を拡大しつつあった松平親忠の応仁の乱のときから松平元康の桶狭間の戦いに至る約100年間に数回の激しい戦場となったところ。岩津,大樹寺方面,ここ西光寺の辺りの広範囲を指す。 |
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B‐AC010b |
井田野古戦場: 千人塚
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松平親忠が1467年と1493年の井田野の戦いでの戦死者を敵味方区別なく埋葬した塚。低い円墳状の地の墳頂に約2mの石碑と、そのほかに小さな碑や墓が20基ほど建てられている。 |
市 |
B‐AC012 |
石筒ヶ根古戦場 |
1573年、亀山城主・奥平貞能は、武田方から離反し徳川方に味方することに決め、8月20日夜、一族は夜陰に乗じて滝山城へと向かった。これを知った武田方の甘利晴吉軍と亀山城から石筒ヶ根辺りまでの広範囲で戦いが続いた。 |
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新城市 |
B‐AC004a01 |
長篠古戦場: 武田勝頼本陣跡 (医王山砦跡)
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長篠城攻めの陣城として医王寺の裏山に築いたものとされる。武田勝頼本軍はここに3s千の陣を配置した。 |
市 |
B‐AC004a02 |
長篠古戦場: 大通寺山陣所跡
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馬場信房の陣所。同志の内藤昌豊,山県昌景,土屋昌次を同道して決戦での奮闘を誓い今生の別れとして泉の水を酌み交わして出陣した。 |
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B‐AC004a03 |
長篠古戦場: 天神山陣地跡
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一条信龍,土屋昌次,真田信綱,昌輝兄弟ら兵2千が陣を構えたところ。医王寺山本陣の南、大通寺山陣地の西に位置する。 |
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B‐AC004a04 |
長篠古戦場: 武田勝頼戦地本陣跡
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1575年5月、武田勝頼は多くの忠臣の決戦回避の進言を聞き入れずに寒狭川を渡ってこの清井田へ進撃し、ここを戦地本陣とした。 |
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B‐AC004a05 |
長篠古戦場: 武田勝頼観戦地跡 (才ノ神本陣跡)
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武田勝頼は設楽原決戦の開戦時に連吾川を見下ろすこの才ノ神の赤禿山から観戦した。 |
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B‐AC004a06 |
長篠古戦場: 天王山陣所跡
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内藤昌豊が陣を張った所であり、戦中には武田勝頼が自らここへ陣を移して昌豊と共に指揮をとったとされる。 |
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B‐AC004a07 |
長篠古戦場: 鳶ヶ巣山砦跡
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【C-AC256】鳶ヶ巣山砦跡参照 |
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B‐AC004a08 |
長篠古戦場: 中山砦跡
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【C-AC257】中山砦跡参照 |
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B‐AC004a09 |
長篠古戦場: 久間山砦跡
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【C-AC258】久間山砦跡参照 |
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B‐AC004a10 |
長篠古戦場: 姥ヶ懐砦跡
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【C-AC259】姥ヶ懐砦跡参照 |
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B‐AC004a11 |
長篠古戦場: 君ヶ臥床砦跡
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【C-AC260】君ヶ臥床砦跡参照 |
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B‐AC004a12 |
長篠古戦場: 織田信長本陣極楽寺跡
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設楽原に軍を進めた織田信長が最初の本陣を置いたところ。 |
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B‐AC004a13 |
長篠古戦場: 織田信長戦地本陣跡 (茶臼山)
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織田信長は設楽原の戦いに備えて、最初の本陣極楽寺跡で軍議を開いた後、茶臼山に本陣を移した。 |
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B‐AC004a14 |
長篠古戦場: 織田信忠本陣地跡 (野邊神社)
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織田信忠は父信長が戦地本陣を置いた茶臼山の南側の野邊神社に陣所を置いた。 |
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B‐AC004a15 |
長篠古戦場: 羽柴秀吉陣地跡
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羽柴秀吉は織田信長戦地本陣の北側、織田徳川連合軍の最左翼に陣を構えた。 |
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B‐AC004a16 |
長篠古戦場: 徳川家康本陣跡 (八剱神社)
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徳川家康は自ら最前線の弾正山(断上山)に本陣を置いた。 |
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B‐AC004a17 |
長篠古戦場: 徳川家康物見塚
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設楽原での決戦が始まると、武田軍が一望できる八剣山の物見塚へ移り陣頭指揮指揮をとった。 |
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B‐AC004a18 |
長篠古戦場: 岡崎信康本陣地跡 (松尾神社)
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岡崎(松平)信康は石川数正や平岩親吉と共に松尾神社に布陣した。 |
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B‐AC004a19 |
長篠古戦場: 大久保兄弟布陣跡
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大久保忠世,忠佐兄弟は徳川軍の最右翼に布陣した。 |
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B‐AC004a20 |
長篠古戦場: 北畠信雄本陣地跡
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北畠(織田)信雄は織田徳川連合軍の最後尾の位置となる高台に本陣を置いた。 |
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B‐AC004a21 |
長篠古戦場: 設楽越中守陣地跡
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設楽越中守貞通は鳶ヶ巣山陣地奇襲部隊に加わり、樋田に陣を構えて鳶ヶ巣山陣地から敗走してくる武田の敗残兵を討った。 |
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B‐AC004b01 |
長篠古戦場: 鳥居強右衛門磔死趾
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織田徳川連合軍の援軍派遣を知らせに戻った鳥居強右衛門が武田の兵に捕らえられ磔になった場所。 |
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B‐AC004b02 |
長篠古戦場: 松平伊忠戦死の地
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松平伊忠は鳶ヶ巣山砦の残敵追撃戦で前線に出過ぎ、武田軍の小山田昌行の兵から猛反撃を受けて戦死した。 |
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B‐AC004b03 |
長篠古戦場: 勝楽寺前激戦地
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勝楽寺の南方、設楽原の最南端に位置する田園地帯で決戦の口火が切られた戦場。馬防柵はない。 |
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B‐AC004b04 |
長篠古戦場: 設楽原決戦場 (馬防柵)
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武田の騎馬軍団に対抗するために織田信長が考えたとされる馬防柵がある所。 |
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B‐AC004b05 |
長篠古戦場: 大宮前激戦地
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馬場信房,土屋昌次らの武田軍右翼と佐久間信盛,滝川一益らの主に織田軍が激戦を繰り広げた場所。 |
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B‐AC004b06 |
長篠古戦場: 名高田前激戦地
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武田軍右翼に陣した馬場信房,土屋昌次らと織田軍最左翼の水野信元,佐久間信盛らの激戦が繰り広げられた場所。 |
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B‐AC004b07 |
長篠古戦場: 柳田前激戦地
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徳川軍の馬防柵のほぼ正面にあたり、武田軍の武田信廉,内藤昌豊,甘利信康らが激戦を繰り広げた場所。 |
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B‐AC004b08 |
長篠古戦場: 竹広激戦地
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徳川家康と山県昌景の陣地の間に位置する。設楽原の戦いの中でも最も激しい戦いが繰り広げられた。 |
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B‐AC004b09 |
長篠古戦場: 橋詰殿戦場
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武田軍が総崩れとなり、武田勝頼を甲州へ帰還させるために馬場信房や笠井満秀などが殿となって織田徳川連合軍と最後の戦いを繰り広げた場所。 |
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B‐AC004b10 |
長篠古戦場: 瀧川助義,笠井肥後 相討の地
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笠井満秀は武田勝頼に自分の馬を勧めた後にここを自ら勝頼と名乗り瀧川助義と組討ち刺し違えて戦死した場所。 |
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B‐AC004b11 |
長篠古戦場: 丸山砦攻防戦地
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織田軍佐久間信盛6千が守る砦を武田軍右翼の馬場信房が手勢7百で攻撃し攻め取った。 |
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B‐AC004b12 |
長篠古戦場: 土屋昌次戦死の地
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土屋昌次は三重に廻らされた柵の第二柵まで突破し、第三柵前で一斉射撃により戦死した。 |
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B‐AC004b13 |
長篠古戦場: 馬場信房戦死の地
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殿を努めた馬場信房は勝頼が無事に豊川を越えて落ち延びていくのを見届けた後、敵の河井三十郎に手柄にせよと自ら首を差し出し戦死した。 |
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B‐AC004b14 |
長篠古戦場: 山本信供戦死の地
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山本信供は武田軍の総崩れとともに徳川軍の追撃をかわしつつ退いたが渡辺半蔵守綱に討たれた。山本勘助の子。 |
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B‐AC004c01 |
長篠古戦場: 首洗池
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長篠の戦いの後、戦死者の首を洗ったという池。 |
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B‐AC004c02 |
長篠古戦場: 信玄塚
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長篠設楽原の戦いの戦死者を埋葬した塚とされる。主戦場となった竹広村の住民たちによって葬られた。 |
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B‐AC004c03 |
長篠古戦場: 蟻封塔
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戦死者を葬った場所。おびただしい蟻が出て村人を苦しめたため医王寺の住職が供養したと伝えられる。 |
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B‐AC004c04 |
長篠古戦場: 清井田訣盃跡
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設楽原の決戦に先立ち、武田軍の馬場信房,内藤昌豊,山県昌景,土屋昌次の四人が訣別の盃を交わした場所。 |
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B‐AC004c05 |
長篠古戦場: 甲田
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武田勝頼が捨てたとされる武田家伝来の「諏訪法性の甲」が発見された場所。 |
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B-AC004c06 |
長篠古戦場: 雁峰山
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鳥居強右衛門と鈴木金七郎重政は雁峰山を登り50Km先の岡崎城にたどり着いた。 |
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B‐AC004c07 |
長篠古戦場: コロミツ坂 (信長賞詞の地)
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織田信長が長篠城を死守した奥平貞昌を呼び寄せ、その戦功を称え信長の「信」の一字を与えた。 |
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