関口隆吉墓所〔臨済寺〕
せきぐちたかよし ぼしょ〔りんさいじ〕(Grave of Sekiguchi Takayoshi [in Rinsai-ji Temple])
【K-SZ067】探訪日:2025/4.12
静岡県静岡市葵区大岩町7-7
【MAP】
〔駐車場所〕臨済寺の参詣者用駐車場がある。
1889(明治22)年5月17日、52歳で没した幕末の幕臣で初代静岡県知事および第2代山口県知事であった関口隆吉の墓所である。臨済寺にある。幕臣・関口家は今川一族の関口親永(築山御前の父)の子孫である。
1867(慶応3)年、開国論者の勝海舟の暗殺を企てるが、未遂に終わる。海舟は隆吉に鐙斎とニックネームを付け、二人は親友となる。同年の大政奉還を幕臣として迎える。1868(慶応4)年に徳川慶喜御謹慎所勤方、さらに身辺警衛精鋭隊頭取並および町奉行支配組頭となり、慶喜の警護役を務めた。江戸城明け渡しにも立会い、市中取締役頭に就任、勝海舟や山岡鉄舟,松岡万らと盟約を結び、徳川慶喜を駿河に遷すなど、幕末の戦後処理と新時代の確立のために尽力した。1870(明治3)年には、慶喜のいる遠州城東郡月岡村に一家で居を移し、金谷開墾方頭取並となり、移住した旧幕臣たちとともに牧之原台地の開墾と大茶園造成事業に着手した。
1873(明治6)年から1875(明治8)年にかけて第2代山形県権令、次いで1881(明治14)年まで第2代山口県県令を歴任し、1884(明治17)年から1886(明治19)年にかけて第3代静岡県県令をつとめた。当時は出自に関係する地の県令には就任できないというルールがあったが、隆吉のケースは異例のことであった。静岡県県令となってからは治山治水事業に尽力し、天竜川から中遠地方一帯に農業用水を引く遠州社山の隧道工事、富士郡の塩害を防ぐ沼川石水門の建築、県庁舎新築なども進めている。また、図書蒐集と活用をめざし、久能山に私費による図書館「久能文庫」の創設も企画した。
1886(明治19)年、地方官官制公布により、初代静岡県知事に任命される。翌年には、静岡教会牧師の平岩愃保と共に、静岡県内初の女子教育機関である私立「静岡女学校」(現静岡英和女学院中学校・高等学校)を開校した。
1889(明治22年)4月11日、名古屋で行われた第三師団の招魂祭への列席のため、自身が敷設に尽力した東海道線開通試運転の工事用貨物列車に併結された客車に乗車中、他列車との正面衝突事故に遭い、左足の足首打撲骨折の重傷を負った。医師の所見では右足の切断を要するほどの重症であったが、関口は頑としてこれを拒んだため、傷口から感染した破傷風によって同年5月17日に死去した。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 明治時代 |
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関連年号 | 1889年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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関口隆吉 | G364 |