宗良親王墓所

むねよししんのう ぼしょ(Grave of Prince Muneyoshi)

【K-SZ001】探訪日:2013/5.3・2023/2.4

【K-SZ001】宗良親王墓所 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991

【MAP】

〔駐車場所〕

 

【K-SZ001】宗良親王墓所

   宗良親王は後醍醐天皇と二条為子の子として1311(応長元)年に生まれた。1330(元徳2)年には天台座主に任じられるが、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野の南朝方として活躍をするようになる。1338(延元3/暦応元)年、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊より陸奥国府へ渡ろうとするが、座礁により遠江国に漂着し、井伊谷城の井伊道政のもとに身を寄せる。
 1340(興国元/暦応3)年に井伊谷城が落城すると、越後国や越中国などに滞在した後、信濃国伊那郡の豪族香坂高宗に招かれ、大河原城に入った。宗良親王はこの地を約30年間にわたり拠点とし、信濃宮と呼ばれるようになる。その間、諸国にも出陣し、鎌倉を占領した時期もある。1352(正平7/文和元)年には征夷大将軍に任じられたが、鎌倉を占領し続けることはできず、再び大河原の地に戻る。
 1369(正平24/応安2)年には信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受け、1374(文中3/応安7)年、ついに頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻り再び出家した。
 晩年については、1381(弘和元/永徳元)年以後は、確たる記録が残されておらず、終焉場所についても諸説ある。長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説、遠江国井伊で1385(元中2/至徳2)年8月10日に薨去したとする説、大河原から諏訪へ向かう途中の峠道(入野谷郷)で討ち死したとする説などがある。
 1873(明治6)年、政府は静岡県の井伊谷宮の墳墓を宗良親王の陵墓と定めた。長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔も宗良親王の墓と伝えられており、また美濃国恵那郡高山にも墓がある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 南北朝時代
関連年号 1385年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
宗良親王 K501 後醍醐天皇 K501 二条為子 F788

 

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龍潭寺にある御位牌