匂坂館跡

さぎさかやかたあと(Sagisaka Residence Ruins)

【R-SZ005】探訪日:2016/3/25

【R-SZ005】匂坂館跡 静岡県磐田市匂坂中

【MAP】

〔駐車場所〕

【R-SZ005】匂坂館跡

   築造年代は定かではないが、現在の岩田小学校の南側にある水田地帯にあったとされる。北東の段丘上に位置する匂坂城は1532(天文元)年に匂坂筑前守六郎五郎長能が社山城より移り築いたが、匂坂の地は元々の本領であり、館の築造がその前か後かは不明である。1571(元亀2)年3月の武田信玄の遠江侵攻時に匂坂城の落城とともに焼失した可能性が高い。遺構は残っておらず、館跡に匂坂城の城址碑が建てられている。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1532年・1571年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
匂坂長能 F*** 匂坂吉政 F***

 

【R-SZ005】匂坂館跡
 城址碑の文面は反射してうまく撮影できなかったため、他のサイトから以下に引用させて頂いた(漢数字からアラビア数字に置変えている)。 

 

【R-SZ005】匂坂館跡
<碑に書かれた文面>
【表面】匂坂城跡
遠江の国人領主匂坂氏が居所とした城で、天文元年壬辰年(1532)匂坂筑前守六郎五郎長能は、社山城主を菅沼重左衛門定平と交替し、本領匂坂に城砦を構築した。又社山城より若宮八幡社を匂坂城に移し領守とした。元亀2年(1571)3月武田信玄の高天神城攻めの時、同月6日信玄凱軍し小田松、匂坂、宮口の三城が落城した。遠江に進出した武田信玄は、匂坂城を落とし、重鎮穴山梅雪を置いて守らせていた。この頃の匂坂城は、武田軍の二俣攻めに際し、掛川と浜松を分断する大きな役割を果たしていた。城跡は本城跡といい、宝暦年間(1751)土地を鋤塚とし、槍、太刀等が出、若宮の内に納められた。
                     平成6年3月吉日記す
【裏面】
匂坂六郎五郎長能 後改六右衛門入道 筑前守
      今川家に属す。 社山城主
天文元年 本領匂坂に城砦を築く。
天文4年 西手、中日尾、西城の采地証文を氏輝より賜り奥山城に住す。
天文5年 甲州都留郡山中合戦の時、氏輝の先陣を努め軍功有り、采邑を賜る。
天文16年 今川治部大輔義元より本領を賜る。
天文20年 三州長澤城に住す時、吉田(豊橋)の戸田氏を撃ち、野田郷を賜る。
天文23年 松平廣忠逝去の後三州岡崎城に住し、本領の上三州に於いて250貫文加増さる。
弘治4年 三州寺部城主鱸日向守重治を撃ち、寺部領を賜る。
永禄4年 三州牛久保城に住す時、数年の袖軍に依り今川上總介氏眞より400貫文加増さる。
永禄7年 三州の領地を遠州に於いて替地、並びに加増さる。
     見取村藏参庵を移し、岩田山藏参寺を建立し、開基となる。
     天正17年藏の字を増に改める。
永禄8年 今川の一族堀越六郎氏眞に逆臣の時、長能の武功を以て退治、堀越領跡、氏称号源性
     堀越性を賜る。後匂坂に復す。
永禄9年 丙寅年5月11日匂坂城内にて卒 年76歳
        法名 増参寺殿玉叟長金大禪定門
        室  高天神城主小笠原興八郎女
        法名 英照院殿花顔智貞比尼
永禄11年 徳川家康遠江に入国、長能嫡男政信二男吉政家康に属す。
     家康より790貫の領土安堵状を賜る。
元亀元年 姉川合戦の時、匂坂兄弟朝倉義景の重臣眞柄十郎左衛門直隆を撃ち、
     政信家康より佩刀を拝領織田信長より長の一字を賜り長親と改める。
長能┬政信┬政祐─信重    善兵衛家ノ初メナリ
  |  └長政─政勝─政定 江戸旗本向坂家 天和元年知行地 2500石他
  └吉政─吉長─吉次    旗本ニ列シ、野塩村(清瀬市)八幡村(平塚市)ヲ知行ス
五代将軍綱吉公貞享3年於館林遠江匂坂之文字可改向坂旨台命有(明治ニ至リ匂ノ字ニ改ム)

【R-SZ005】匂坂館跡 ※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

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