鳥羽城跡
とばじょうあと (Toba Castle Ruins)
【C-ME013】探訪日:1992/3.22・2024/12.26
三重県鳥羽市鳥羽3丁目1-1
【MAP】
〔駐車場所〕
1594(文禄3)年、九鬼嘉隆が中世の橘氏の居館跡地に築城した。田城城主だった嘉隆は豊臣秀吉の家臣として活躍し、1585(天正13)年に従五位下・大隅守に叙位・任官され、新たに答志郡鳥羽の地を本拠地と定め、標高40mの小山に鳥羽城築城に着手した。鳥羽城の城主は九鬼家3代ののち、内藤家3代,天領,土井家1代,大給松平家1代,板倉家1代,戸田家1代と目まぐるしく代わり、1725(享保10)年以降に稲垣家8代で漸く定着した。なお、内藤家3代の内藤忠勝(甥が赤穂事件の浅野長矩)のとき、芝増上寺で刃傷事件を起こし切腹(御家断絶)となったため、一時、天領とされている。
鳥羽城は大手門が海に開いた水門で、内陸側には海水を引き入れた堀を巡らせ、四方を海に囲まれた海城である。「鳥羽の浮城」とも呼ばれる。内陸側には藤口門,横町口門,相橋口門の3つの橋で連絡し、天守をもつ本丸,二の丸,三の丸と少なくとも13の櫓があった。天守は本丸の北西寄りに位置し、規模は5間(9.09m)×6間(10.91m)で高さ約19.5mの三層、天守台には納戸が設けられていたという。1854(安政元)年の地震により城内天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま、1871(明治4)年に度会県が置県され、同年に払い下げられ破却された。
現在、遺構としては本丸跡と旧家老屋敷の石垣、および相橋に堀の石垣が残されている。
【史跡規模】 |
【指 定】三重県指定史跡(1965年12月9日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:中期 | 明治時代 |
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関連年号 | 1594年 | 1725年 | 1871年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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九鬼嘉隆 | F610 |
鳥羽城縄張り図(上)と外観図(鳥羽市ホームペジより引用)