細井平洲生誕の地

ほそいへいしゅう せいたんのち(Birthplace of Heishu Hosoi)

【Z-AC005】探訪日:2016/9/10

【Z-AC005】細井平洲生誕の地 愛知県東海市荒尾町金山83-6

【MAP】

〔駐車場所〕

【Z-AC005】細井平洲生誕の地

   1728(享保13)年に尾張国知多郡平島村の農家に生まれた。諱は徳民、通称は甚三郎。幼くして学問に励み、1751(宝暦元)年に江戸へ出て嚶鳴館という私塾を開き、武士だけでなく町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。また、西条藩,人吉藩,紀伊藩,大和郡山藩等の藩にも迎えられた。1763(宝暦13)年には、上杉治憲(後の鷹山)の師となる。米沢藩には3次にわたり下向し講義を行っている。藩校興譲館は平洲が命名した。1780(安永9)年、御三家筆頭の尾張藩に招かれ、藩校の明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の督学(学長)も務めた。
 平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや(何をやるにしてもまず勇気が必要である)」がある。また、「自分のして欲しいことを先に他人に対してすべきである」という教えも遺している。『嚶鳴館遺草』序文では、「君主は臣民の父母であって、非常時に自ら節倹すべきことは、親が子に愛情を示すのと同じく為すべきことである」という趣旨のことを示している。松下村塾の吉田松蔭は、「この書は経世済民の書であって、士たるものは必ず読むべきである」と発言している。さらに、西郷隆盛は沖永良部島に流されていた折に、「民を治める道は、この一巻で足りる」と発言しており、彼の敬天愛人思想へ影響したとも考えられる。
 1801(享和元)年、江戸尾張藩藩邸で死去し東京浅草の天獄院に葬られた。なお、平洲親族の墓所は生誕地近くの西方寺にある。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 江戸時代:中期
関連年号 1728年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
細井平洲 KI**

 

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