大野九郎兵衛墓所〔慶寿寺〕

おおのくろべえ ぼしょ〔けいじゅじ〕 (Grave of Kurobee Ono[in Keiju-ji Temple])

【K-SZ008】探訪日:2015/10/23

【K-SZ009】大野九郎兵衛墓所 静岡県島田市大草767

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-SZ009】大野九郎兵衛墓所

   慶寿寺にある播磨国赤穂藩浅野家の末席家老であった大野九郎兵衛知房の墓とされる。赤穂事件に関わる人物で大野の行動については諸説あり、墓も数か所に存在し真実は定かではない。
 1701(元禄14)年3月14日、主君・浅野長矩の吉良義央に対する刃傷事件で長矩は切腹、赤穂浅野家は断絶と決まると、筆頭家老の大石良雄とともに赤穂城での評定を主宰した。大野は開城恭順を主張し、籠城を主張する大石派の藩士と対立し藩内で孤立した。4月12日には逐電する。
 その後の大野については諸説,伝承がある。大石の仇討ちが失敗したとき、吉良の所領である上州に逃げてくることを予測し、安中で「林遊謙」を名乗って寺子屋の師匠に扮していたとする説(松岸寺に墓がある)、同じく、出羽米沢藩の上杉綱憲(吉良の実子)の所領へ落ち延びる際に備え、山形県の板谷峠にて樵に扮して潜伏していたとする伝承もあり、討入り成功を聞き歓喜しその場で自害したといわれている(供養塔がある)。また、「伴閑精」と称して京都仁和寺の辺りに住み1703(元禄16)年4月に衰死して東山の黒谷に葬られたとする説や山梨県甲府市の能成寺にも大野が隠れ住んでいたという伝承が残されている(墓がある)。
 慶寿寺の墓については「赤穂浪人 大野九郎兵衛之墓」と書かれているのみで詳細は不明である。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 江戸時代:前期
関連年号 1703年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大野九郎兵衛知房 ****

 

【K-SZ009】大野九郎兵衛墓所
 

 

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