文覚上人墓所〔神護寺〕

もんがくしょうにん ぼしょ〔じんごじ〕(Grave of Saint Mongaku[in Jingo-ji Temple])

【K-KT023】探訪日:1991/10/16

【K-KT023】文覚上人墓所 京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT023】文覚上人墓所

   1205(元久2)年、対馬国へ流罪となる途中に鎮西で客死した文覚上人の墓所である。性仁法親王の墓所とともに神護寺の背後の山頂に在る。
 文覚は摂津源氏傘下の渡辺党・遠藤氏の出身であり、出家前は遠藤盛遠と名乗り北面武士として鳥羽天皇の皇女・統子内親王(上西門院)に仕えていた。19歳で出家したが、神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため伊豆国に配流され、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し権力を掌握していく過程で、文覚は頼朝や後白河法皇の庇護を受けて、神護寺,東寺,高野山大塔,東大寺,江の島弁財天など各地の寺院を勧請し所領を回復したり建物を修復した。また、頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児・六代の助命を嘆願して六代を神護寺に保護した(頼朝の死後、文覚の佐渡国配流中に六代は処刑される)。
 その後、三左衛門事件に連座して佐渡国へ配流され、1202(建仁2)年に許されて京に戻るが、3年後には後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、再々度、対馬国への配流が言い渡され、流される途中に鎮西にて弟子に看とられながら波乱に満ちた生涯を閉じた。神護寺への埋葬は遺言であったという。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 鎌倉時代
関連年号 1205年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
文覚上人(遠藤盛遠) G009

 

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▲墓所からの眺望

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▲神護寺