仁賢天皇石上広高宮伝承地(姫丸稲荷神社)

にんけんてんのう いそのかみのひろたかのみや でんしょうち(ひめまるいなりじんじゃ)
(Isonokami-hirotaka Palace Traditional Ruins of Emperor Ninken [Himemaru-inari Shrine])

【P-NR030】探訪日:2022/7/2

【P-NR030】石上広高宮伝承地 奈良県天理市石上町

【MAP】

〔駐車場所〕

【P-NR030】石上広高宮伝承地

   第24代・仁賢天皇の宮跡と伝承されている。平尾山稲荷神社(姫丸稲荷神社)の境内に石碑が建つ。神社境内を中心として平尾山の大部分は旧地名を「宮の屋敷」といい、『日本書紀』によると、石上広高宮や仁賢天皇の父・市辺押磐皇子(雄略天皇により殺害)の石上市辺宮はこの地にあったと考証されている。明治時代には神社の東方100mの地より2個の銅鐸が出土している。なお、石上広高宮は天理市嘉幡町にあったとの説もある。
 仁賢天皇(億計王)と弟の弘計王(顕宗天皇)は、父・市辺押磐皇子が従兄弟の大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)に殺されると、共に逃亡して丹波国に身を隠した。雄略天皇の子・清寧天皇には子がなかったため、2王を探し当て宮中に迎え入れ、億計王を皇太子とした。清寧天皇が崩じると、皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が執政した。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年(『古事記』では8年)で崩御したため、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。仁賢天皇の世は国中が良く治まったという。仁賢天皇11年8月に崩御。陵は、宮内庁により大阪府藤井寺市にある埴生坂本陵に治定されている。
 実在性について『梁書』に499年時点の王の呼び名に「乙祁(オケ)」が記録されていることや陵墓の築造時期、隅田八幡神社人物画像鏡(508年)にオケの略字(日十)がみられることなどから可能性は高いと考えられる一方、億計王,弘計王の発見譚は典型的な貴種流離譚として実在しない架空の人物とする見方もある。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 伝承の時代(古墳時代:中期)
関連年号
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
仁賢天皇 K202 市辺押磐皇子 K202 顕宗天皇 K202
大泊瀬皇子 K202 清寧天皇 K202 飯豊青皇女 K202

 

【P-NR030】石上広高宮伝承地  
 

 

【P-NR030】石上広高宮伝承地

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【P-NR030】石上広高宮伝承地

▲遠景

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