本願寺名古屋別院(西別院)

ほんがんじなごやべついん(にしべついん)(Hongan-ji Nagoya-Betsuin Temple [Nishi-Betsuin])

【T-AC091】探訪日:2023/2.8

【T-AC091】本願寺名古屋別院 愛知県名古屋市中区門前町1-23 <📲:052-321-0028>

【MAP】

〔駐車場所〕

   真宗大谷派の「東別院」に対して、浄土真宗本願寺派の寺院で「西別院」と通称される。また、「西本坊」,「西本願寺掛所」の別称もある。
 1574(天正2)年、織田信長の侵攻により桑名の願證寺が絶滅する(長島一向一揆)。信長没後の1584~85(天正12~13)年頃、本願寺第11世宗主・顕如が織田信雄に願い出て、尾張国清洲に願證寺が再建されたが、名古屋城築城による1609(慶長14)年の清洲越しで願證寺も名古屋へ移転した。だが、長島,桑名の門徒が桑名への移転を請うていたこともあって、1615(慶長20)年頃までに願證寺は伊勢国桑名に寺基を移転し、長島と松阪に通寺を設け、同時に名古屋願證寺は桑名願證寺の通寺とされた。
 1715(正徳14)年、桑名願證寺住職・琢誓が真宗高田派に転派したことで起きた門徒の混乱により、同寺と3つの通寺は江戸幕府に没収されたが、1717(享保2)年には琢誓の追放により幕府より返却された。そして翌年、名古屋願證寺通寺は、西本願寺14世・寂如のとき西本願寺の末寺となり、名古屋御坊と称し、以降は本願寺門主が名目上の住職となって、輪番制で守護役を置くことになった。1876(明治9)年、本願寺名古屋別院(西別院)と改称している。
 当寺には、1817(文化14)年に葛飾北斎が境内で120畳敷の紙に「大達磨」を描く興行を行った記録が残されている。1873(明治6)年にはのちの名古屋大学医学部となる医学講習所が置かれた。
 1945(昭和20)年5月17日の空襲でほとんどの建物が焼失し、このとき北斎の大達磨絵も失われた。本堂は1972(昭和47)年に再建されたものである(古代印度中天竺様式)。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 江戸時代:前期 明治時代
関連年号 1584~85年 1609年・1615年 1876年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
本願寺顕如 F336 本願寺寂如 F339

 

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