大鳥居城跡

おおとりいじょうあと(Otorii Castle Ruins)

【C-ME103】探訪日:2023/4.4

【C-ME103】大鳥居城跡 三重県桑名市多度町大鳥居

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-ME103】大鳥居城跡

   築城年は定かではないが、1570(元亀元)年、本願寺顕如が檄によって織田信長との対立を鮮明にしたことで、長島一向宗門徒は長島城を中心に、輪中集落を活用しながら、篠橋城,大鳥居城,屋長島城中江城を築いた。大鳥居城は水谷与三兵衛盈吉の築城という。
 1570(元亀元)年11月、門徒勢が木曽川を渡って尾張に攻めこみ、小木江城の信長の弟・信興を切腹に追いこんだ。信長は翌1571(元亀2)年5月、長島城を攻略すべく兵を送り、信長自身も津島まで出陣するが、門徒側のゲリラ戦法で織田軍は柴田勝家が負傷し氏家卜全らが討死して退却する。
 その後、信長は反信長包囲網のため身動きのとれない状態になるが、浅井長政,朝倉義景,武田信玄が滅亡,病死し、足利義昭も追放したことで、1573(天正元)年9月の第二次長島侵攻の後、1574(天正2)年7月、再々度長島一向一揆の殲滅に取り掛かる(第三次長島侵攻)。
 一揆勢の城は兵糧攻めにされ、3ヶ月にわたる籠城戦が続いた。8月2日、大鳥居城の城兵が撃って出たが、柴田勝家,稲葉一鉄らの軍によって男女1000人ほどが斬られて翌日落城した。続けて12日には篠橋城も落ち、門徒勢は長島城に追いこまれた。長島城も9月29日に降参を申し出るが、助命されず門徒衆多数が射殺あるいは斬り捨てられた。この戦いで一機側の死者は3万人以上ともいわれる。
 大鳥居城跡は揖斐川の西側、多度長島線(県道117号線)の北辺りとされるが、住宅地,畑地に変わり遺構は残されていない。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1570年・1574年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
水谷盈吉 **** 柴田勝家 G342 稲葉一鉄 OC08

 

【C-ME103】大鳥居城跡
 

 

【C-ME103】大鳥居城跡

【C-ME103】大鳥居城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)