小田原城跡

おだわらじょうあと(Odawara Castle Ruins)

【C-KN002】探訪日:2023/4.30

【C-KN002】小田原城跡 神奈川県小田原市城内

【MAP】

 

〔駐車場所〕

   ここでは北条氏没落後に城主となった大久保氏以降について説明する。それ以前の中世小田原城(小田原古城跡)については【C-KN001】を参照。
 1590(天正18)年の小田原征伐後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康は小田原城に腹心の大久保忠世を置いた。1614(慶長19)年には、家康は自らの軍勢を率いて前代の総構の大部分を撤去・縮小させた。同年、2代藩主・大久保忠隣は政争に敗れ、改易されて近江国に配流された(大久保忠隣幽居跡)。その後、城代が置かれた時期もあったが、1619(元和4)年に阿部正次、1632(寛永9)年からは稲葉氏が3代にわたって藩主となったのち、再興された大久保氏が1686(貞享3)年に再び入封し、明治時代まで居城する。小田原藩は箱根の関所を幕府から預かる立場であり、関東の入口としての重要性から、歴代、譜代の大名が藩主を務めた。
 現在の小田原城址公園及びその近辺は、大久保忠世,稲葉正勝によって改修され、総石垣の城になったのは1632(寛永9)年からの大改修後である。本丸を中心に、東に二の丸,三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めた。このほか、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館,銅門,平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟、櫓が8基ほど建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台も建設されている。なお、江戸時代を通して1633(寛永10)年と1703(元禄16)年に大地震に遭い、なかでも元禄の地震では天守や櫓などが倒壊する甚大な被害を受けている。天守が1706(宝永3)年に再建され、この再建天守は明治初期に解体されるまで存続した。
 現在は、本丸,二の丸,茶壺曲輪,馬屋曲輪の復元が進んでいる。鷹部曲輪には図書館,郷土文化館が置かれ、小峯曲輪は報徳二宮神社、屏風岩曲輪は遊園地となっている。御蔵米曲輪も現在復元整備中である。弁財天曲輪は城址公園外の住宅地となっており旭丘高校の校地も存在する。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(1938年8月8日指定、その後も追加指定あり)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1590年 1614年・1619年・1632年・1686年・1706年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
徳川家康 TG01 大久保忠世 F652 大久保忠隣 F652
阿部正次 AB2* 稲葉正勝 OC09 大久保忠朝 F653

 

【C-KN002】小田原城跡
 あいにく朝から小雨模様。説明板にも雨粒が付いている。天気予報では午前中には雨が止むということで、天守閣の展示をいつもより時間をかけて観て回った。外へ出ると、まだ小雨は降ってはいたが傘は不要と判断し、ここからは中世小田原城(小田原古城)の遺構,総構を訪れることにした。総距離約22kmを歩き回ったが、その疲れを忘れるくらいそれぞれの規模の大きさに感動した。回り切れなかった個所も数ヶ所あるが、またの機会にチャレンジしたい。 

 

【C-KN002】小田原城跡

 

近世小田原城(小田原城古絵図に加筆)

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幸田口門跡 三の丸土塁跡 二の丸東堀 二の丸隅櫓 めがね橋 めがね橋(馬出門土橋)の先に馬出門 めがね橋の南(馬屋曲輪と二重櫓跡) めがね橋から見た二の丸隅櫓 馬出門(2009年復元) 内冠木門 内冠木門 内冠木門(内側:馬屋曲輪側) 大腰掛跡 御茶壺曲輪 住吉堀 銅門 住吉橋と内仕切門 銅門 二の丸からみた銅門 二の丸跡 常盤木橋 本丸東堀 イヌマキ 本丸東堀 本丸東堀から見た常盤木橋 常盤木門 常盤木門 常盤木門 常盤木門 本丸跡から見た常盤木門 本丸跡 本丸跡 天守閣(複合式層塔型3重4階:1960年 鉄筋コンクリート造復興) 伊豆半島,真鶴半島方面 石垣山城方面 三浦半島方面 報徳二宮神社(小峯曲輪) 小峯曲輪北堀 滑落した本丸の石垣 坂を下って御用米曲輪へ 御用米曲輪 御用米曲輪北西土塁 小田原城北入り口