崇徳天皇皇后皇嘉門院月輪南陵

すとくてんのうこうごう こうかもんいん つきのわのみなみのみささぎ
(Tsukinowa Minami Mausoleum of Kokamonin, the Empress of Emperor Sutoku)

【K-KT039】探訪日:2015/10.3

【K-KT039】皇嘉門院陵 京都府京都市東山区本町15丁目

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT039】皇嘉門院陵

   1181(養和元)年12月4日に61歳で崩御した皇嘉門院の陵である。皇嘉門院は摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女で第75代・崇徳天皇の皇后(中宮)となった。諱は藤原聖子。忠通の嫡妻腹の唯一の子女である。
 1129(大治4)年、崇徳天皇に入内して女御となり、翌年に中宮に冊立。忠通の望みに反して、聖子は一人の子女も生まなかったが、鳥羽法皇の皇子・體仁親王(後の近衛天皇)の准母となり、體仁親王が即位した1141(永治元)年に皇太后となった。1150(久安6)年、皇嘉門院と号した。
 1156(保元元)年の保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流となる。父・忠通は勝者側であったが、聖子は板挟みとなり同年出家した。皇嘉門院が崇徳上皇の配流に同行しなかった(できなかった)のは、女院という立場の相違に由来するもので、寵愛の程度によるものではない。崇徳上皇はそれほど身分が高くない女房・兵衛佐局を深く寵愛し、兵衛佐局は讃岐国へ同行したが、皇嘉門院との夫婦仲も良好であったという。
 父の没後は猶子としていた異母弟の九条兼実の後見を受け、兼実の嫡男・良通を猶子として、忠通伝来の最勝金剛院領などを相続させた。これが後世における九条家家領の源流になったといわれる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:後期
関連年号 1181年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
藤原聖子(皇嘉門院) F702 崇徳天皇 K328 藤原忠通 F702

 

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【「新陵墓探訪記」より転載】