豊川海軍工廠跡

とよかわかいぐんこうしょうあと(Toyokawa Naval Arsenal Ruins)

【R-AC014】探訪日:2023/10.21

【R-AC014】豊川海軍工廠跡 愛知県豊川市穂ノ原3丁目

【MAP】

〔駐車場所〕豊川海軍工廠平和公園駐車場がある(入り口は北側)。

【R-AC014】豊川海軍工廠跡

   1939(昭和14)年12月15日に日本で5番目の海軍工廠として開廠した。1938(昭和13)年7月頃から土地の買収が始まり、翌年3月から造成が始まった。開廠当初は機銃部,火工部と総務部,会計部からなり従業員約1,500名であったが、太平洋戦争時には航空機用機銃と対空機銃の需要が高まり工廠は急速に発展した。1945(昭和20)年2月時点での従業員は職員400名,工員10,000名,徴用工員40,000名,動員学徒6,000名の計56,400名となり、東洋一の規模を誇る工廠となる。また工廠周辺には電気・ガスの供給設備、男女工員寄宿舎をそれぞれ10ヶ所以上設置するなど、それらを含めると広さは330ヘクタールにも及んだ。工廠では主に機銃と弾丸,信管の製造を行い、工廠の南部2/5は機械工場が建てられ、北部3/5は火薬類の扱いや火工作業場とされた。
 1945(昭和20年)に入ると、小規模な空爆が度々続いたが、広島原爆投下の翌日、1945(昭和20)年8月7日10時30分、サイパン,テニアン,グアムから飛来した戦闘機48機とB-29爆撃機124機(131機,135機説もある)の12波にわたる爆撃を受け、30分間に500ポンド(250kg)爆弾3,256発が投下され工廠は壊滅した。この空襲により、およそ2,500名(文献により異なる)が犠牲となった。勤労動員されていた国民学校児童,中学生,女学生,高等科生徒からも男193名,女259名の計452名の犠牲者がでている。
 終戦とともに、10月5日には工廠は廃止され、その跡地は現在、陸上自衛隊豊川駐屯地,日本車輌製造豊川製作所,コニカミノルタ瑞穂サイト,豊川市役所,名古屋大学太陽地球環境研究所などに利用されている。また、2018(平成30)年6月には豊川海軍工廠平和公園が整備開園し、平和交流館が建てられている。公園内には旧第一火薬庫,旧第三信管置場や防空壕跡をみることができる。

【史跡規模】

【指 定】豊川指定史跡:旧第一火薬庫,旧第三信管置場(2018年4月25日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 昭和時代
関連年号 1939年・1945年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図

 

【R-AC014】豊川海軍工廠跡  
 いつかは訪れようと思っていた。実は私の母も豊川海軍工廠の総務部で働いていたことがあった。母は1944年1月に実家(静岡県)に戻っていたが、1945年8月の爆撃では、机を共にした同年輩の友達や面倒を見てくださった先輩,兵士の方が幾人も亡くなった。母にとっては人生でいちばんつらい出来事の一つであったという。平和公園だけでなく工廠敷地だったとされる範囲を歩いてみると、その広さに驚く。また、そこが30分で焼け野原になってしまったという空爆の激しさは想像を絶するものがある。平和交流館では、写真やビデオ,手記などから悲惨さが生々しく伝わってくる。なかでも小学生が両親宛に残した遺言状は、胸を締め付けられるものがあった。

 

【R-AC014】豊川海軍工廠跡

豊川海軍工廠の配置図(現地パンフレットに加筆)

 

豊川海軍工廠空爆後の惨状と航空写真(現地パンフレットより)

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工廠の正門を修復使用している日本車両製造(株)の門 平和公園駐車場入り口 外周の土塁と水路 外周の土塁 防空壕跡 防空壕跡 防空壕跡 旧第三信管置場 旧第三信管置場 土塁に囲まれた旧第三信管置場 旧第三信管置場 旧第三信管置場 旧第三信管置場 土塁に設けられた通路 土塁に設けられた通路 土塁に設けられた通路 土塁の外側 街路灯 当時の水槽跡 旧第一火薬庫 北門 西門 東門