山名宗全墓所〔真乗院〕

やまなそうぜん ぼしょ (Grave of Sozen Yamana [in Shinjo-in Temple])

【K-KT050】探訪日:2015/11.7

【K-KT050】山名宗全墓所 京都府京都市左京区南禅寺福地町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT050】山名宗全墓所

   1473(文明5)年3月18日、応仁の乱の最中に病死した山名宗全の墓所である。南禅寺塔頭の真乗院内にある。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。
 1433(永享5)年8月に家督を相続し、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。1441(嘉吉元)年6月、持豊は足利義教と共に赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出し、7月には満祐討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻し、満祐の城山城を陥落させて鎮圧に貢献し、赤松氏の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となった(嘉吉の乱)。
 1467(応仁元)年に始まった応仁の乱では西軍総大将として知られるが、その頃には60を越える老齢であった。東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには、具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払ったという記録もあるが、戦いが泥沼化・長期化するなか、年齢による衰えは隠しようもなく、1470(文明2)年には重度の中風に冒されて自筆もできず花押印を使用していたという。1473(文明5)年3月18日に病死。享年70。先年に切腹未遂を起こした時の傷が悪化したのが原因ともいわれているが、詳細は不明。
 なお、宗全死去から2ヶ月後の5月11日には東軍総大将の細川勝元も死去している。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 室町時代
関連年号 1473年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
山名持豊(宗全) G315

 

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【K-KT050】山名宗全墓所

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