光明天皇大光明寺陵

こうみょうてんのう だいこうみょうじのみささぎ(Daikomyoji Mausoleum of Emperor Komyo)

【K-KT034】探訪日:2015/10.3

【K-KT034】光明天皇陵 京都府京都市伏見区桃山町泰長老

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT034】光明天皇陵

   1380(康暦2/天授6)年7月26日に宝算60で長谷寺にて崩御した北朝第2代(『本朝皇胤紹運録』では97代)・光明天皇〔在位:1336~48年〕の陵である。宮内庁上の形式は円丘。崇光天皇陵,治仁王墓と同兆域である。
 諱は豊仁、後伏見天皇の第九皇子である。1336年(建武3)年9月20日、足利尊氏の要請により、治天の君である光厳上皇が院宣を用いて、豊仁を践祚させた。光明の即位時には三種の神器は後醍醐天皇のもとにあったが、後醍醐は尊氏と和睦すると神器と称するものを光明側に引き渡し、光明が唯一の天皇であると認めさせられた格好で幽閉された。その後、1337(建武3)年1月に吉野に逃れた後醍醐は自らの退位と光明の登位を覆し、南北朝体制が成立する。
 1348年(貞和4)年には、光厳上皇の第一皇子・興仁に譲位している(崇光天皇)。1352(観応3)年、南朝の軍勢が足利義詮を排除して京都を奪回した際に、光厳上皇,崇光上皇,皇太子・直仁親王とともに捕らえられ、大和国賀名生,河内金剛寺に幽閉されるが、1355(文和4)年には光明のみ解放されて京都に返された。京へ戻った以後は落髪して仏道に入ったとされる。伏見の保安寺,深草の金剛寿院,大光明寺,長谷寺など各地を遍歴して修行し、長谷寺にて崩御した。
 民衆思いの天皇であったとされ、恩師(唐橋公時ら)への報恩の念も強かったという。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 南北朝時代
関連年号 1380年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
光明天皇 K333

 

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