蛤御門の変

はまぐりごもんのへん(Hamaguri-gomon Gate Incident)

【B-KT002】探訪日:2012/10.20

 京都府京都市上京区烏丸通下長者町上ル元浄花院町龍前町605

【MAP】

〔駐車場所〕

   1864(元治元)年7月19日(新暦:8月20日)、京都で起きた長州藩兵と会津・桑名藩兵,薩摩藩兵の武力衝突事件で、京都御所の西辺で戦闘が勃発し、特に蛤御門付近が最激戦地となったため「蛤御門の変」と呼ばれるが、御所の各門、また京都市中が戦場となった。禁門の変,元治の変とも呼ばれる。京都市中では長州藩屋敷からの火と中立売御門付近からの火によって約3万戸が延焼・焼失したという。
 急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863(文久3)年に公武合体派の会津藩,薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、藩兵は任を解かれて京都を追放された。しかし、朝廷内ではなお攘夷論がくすぶり続け、水戸藩尊攘派による天狗党の乱、参預会議の失敗、そして池田屋事件での新選組による長州藩士殺害を機に、長州の進発論(武力を背景に朝廷に長州の無実を訴える)積極派は行動に出た。
 朝廷内部でも長州勢駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督・徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、孝明天皇に長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。長州藩の久坂玄瑞は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島又兵衛,真木保臣らの進発論に押され、やむなく挙兵した。
 7月19日、蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵の戦闘が勃発。一時、福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入したが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転し敗退した。狙撃を受け負傷した来島は自決した。真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線は壊滅的であったが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞,寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害した。帰趨が決し、敗残兵らはめいめいに落ち延び、天王山で殿となっていた益田隊も敗報を聞くと撤退、長州へと帰還した。主戦派であった真木保臣は天王山での合流に失敗し、小屋に立て籠もり、火薬に火を放って自爆死した。
 戦後、御所に向かって発砲したことで長州藩は朝敵に指定され、第一次長州征伐へと繋がっていく。
 なお、薩摩藩と交戦して死亡した長州藩兵20人の遺体は、薩摩藩により相国寺の塔頭寺院・大光明寺に葬られ、1906(明治39)年になって毛利家により墓石が建立されている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 江戸時代:後期
関連年号 1864年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
一橋慶喜 TG07 松平容保 MT61 西郷隆盛 F630
小原鉄心 F441 近藤 勇 **** 福原元僴 ****
来島又兵衛 G*** 国司親相 **** 益田親施 ****
久坂玄瑞 **** 寺島忠三郎 **** 入江九一 ****
真木保臣 **** 宮部春蔵 **** 大沢逸平 ****

 

【B-KT002】蛤御門の変
  

 

【B-KT002】蛤御門の変                 <蛤御門の戦い(1864年7月19日)

【B-KT002】蛤御門の変 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

門柱に残る弾痕