承久の乱合戦供養塔

じょうきゅうのらん かっせんくようとう(Memorial Pagoda of The Jokyu War)

【K-GF023】探訪日:2024/2.8

【K-GF023】承久の乱合戦供養塔 岐阜県各務原市前渡西町6丁目

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-GF023】承久の乱合戦供養塔

   1221(承久3)年6月5日の承久の乱における摩免戸(大豆戸)の戦いでの鎌倉幕府軍,京都朝廷両軍の戦没者供養のための五輪塔群である。もともとは、後世(戦国~江戸初期)にこの地の人々の手により西宮寺に安置されていたものであるが、 木曽川の氾濫により寺は流され供養塔も埋もれたままになっていたところ、1932(昭和7)年に前渡の各地から掘り出され、昭和30年代に矢熊山中腹に移転安置された。矢熊山山頂には仏眼院(通称、前渡不動尊)がある。
 1221(承久3)年5月、後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の院宣を出すと、鎌倉幕府軍は三手(東海道軍,東山道軍,北陸道軍)に分かれて京都に進軍する。これに対し、朝廷軍は木曽川沿いに軍を配置した。6月5日、戦いは大井戸渡(美濃加茂市太田)で始まったが、朝廷軍2万余騎に対し、武田信光ら東山道軍は5万余騎と数に勝り、幕府軍の圧勝に終わった。
 同日、北条泰時を総大将とする東海道軍10万余騎も浅瀬のある摩免戸の地で木曽川を渡り、総大将・藤原秀康率いる1万余騎の朝廷軍に攻撃を仕掛けるが、ここでも圧倒的な兵力差に、朝廷軍は京都へと後退した。
 また、少し離れた墨俣の地でも藤原秀澄や山田重忠が墨俣砦に立て籠もったが、北条時房軍が攻め落としている。
 なお、供養塔の前では、今も毎年6月5日に供養祭が行なわれている。

【史跡規模】

【指 定】各務原市指定史跡(1972年11月指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代
関連年号 1221年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
後鳥羽上皇 K331 北条義時 H171 北条泰時 H172
北条時房 H183 武田信光 G427 藤原秀康 F9**
山田重忠 G604

 

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承久の乱での鎌倉幕府軍進路(各務原市歴史民俗資料館パンプレットに加筆)

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