霊元天皇月輪陵

れいげんてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Reigen)

【K-KT057】探訪日:2015/10.3

【K-KT057】霊元天皇陵 京都府京都市東山区泉涌寺山内町27

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT057】霊元天皇陵

   1732(享保17)年9月24日、宝算78で崩御した第112代・霊元天皇〔在位:1663~87年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。
 後水尾天皇の第十九皇子で、母は園基音の女の藤原国子(新広義門院)。諱は識仁、称号は高貴宮。現在の皇室と、1947(昭和22)年に皇籍離脱した旧皇族及びその子孫の、男系女系を問わない場合の最も近い共通祖先である。
 1654(承応3)年に後光明天皇が崩御した時には、同帝の養子になっていたが生後間もなく、兄の後西天皇が中継ぎし、1663(寛文3)年1月26日、10歳に成長した識仁親王が即位した。
 即位当初は、朝廷内部の人事(権力争い),江戸幕府との駆け引きなどで揺れ動いたが、1669(寛文10)年からは、霊元天皇が親政を始め、官位叙任も直接取り扱うようになった。即位以来武家伝奏を勤めた飛鳥井雅章と正親町実豊は退任し、中院通茂と日野弘資が後任となった。しかし度々、天皇や近習の不行跡事件が相次ぎ、幕府は後水尾法皇や天皇に近侍する年寄衆に近習の統制を、東福門院(徳川和子)に奥向きの統制をそれぞれ求めるようになった。
 江戸幕府は鷹司房子が生んだ皇子が次の皇位を継承することを望んでいたが、天皇と房子の関係がうまくいっておらず、1671(寛文11)年には中納言典侍(小倉実起の娘)が皇子(一宮)を生んだ。武家伝奏の中院通茂,日野弘資と幕府から派遣されていた禁裏附は、一宮と翌年源内侍(愛宕福子)が生んだ二宮を事実上皇位継承から外すことで合意した。その後、天皇との関係が改善された房子が懐妊したが、生まれたのは皇女であった。
 その一方で、典侍の不足問題に所司代も後水尾院も女院も対処しないことに不満を抱いた天皇は、1674(延宝2)年5月に武家伝奏や禁裏附に無断で松木宗条の娘の宗子を典侍に任じた。しかも、翌年9月には彼女が五宮となる皇子(後の東山天皇)を生んだ。朝幕の有力者が次々と世を去ると、霊元天皇は自らの路線を強硬に推し進め、1681(延宝9)年2月には寵愛する五宮を儲君にすることを認めるよう幕府に伝達し、幕府もこれを承認しせざるを得なかった(将軍・徳川綱吉は天皇の意向を尊重するべきであると、一宮排斥と五宮の儲君化を容認した)。
 1683(天和3)年、霊元の強い要請により五宮朝仁親王の立太子礼が行われた。これは1348(貞和4)年の直仁親王立太子以来335年ぶりの出来事である。1686(貞享3)年閏3月、霊元天皇は朝仁親王に譲位(東山天皇)し、上皇となる。さらに霊元上皇は、長年中断していた即位式と共に行われる大祭大嘗祭を行うことを強く要望した。大嘗祭再興については朝廷内にも財源と準備が不足とした強い反対派が存在したが、大嘗祭の再興に関しては幕府側に臨時支出を求めないという霊元側からの申し出もあり、最終的に大嘗祭が容認された(次代から再び中絶する)。
 霊元は太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し、以後「仙洞様」とよばれるようになる。霊元の院政は仙洞御所に別個の機構を確立して、そこから朝廷機構に指示を下すというものであり、朝廷の主宰者であるという意識を強く持っており、東山天皇が成人するまで本来天皇が行う儀式である四方拝を仙洞御所にて行った。この霊元の姿勢は幕府が望むものではなく、また、朝廷執行部との確執も生むこととなる。
 霊元上皇の独断的なやり方に対し、関白以下の公家たちや京都所司代は苦慮し、譲位後の院政は不可であり、関白が中心として朝廷運営を行うべきであるとする幕府の方針が改めて示されたことで、霊元は一般的な政務は移譲するが、重要事項には変わらず関与し続ける方針を示した。1693(元禄6)年10月23日には、譲位後に霊元が政務に口出ししてはならないという将軍綱吉の意志も伝えられた。これを受けて政務の完全な移譲が行われたが、霊元上皇は裏面からの介入を諦めようとはしなかった。
 東山天皇の男子には早世が多く、霊元上皇と松木宗子が寵愛していた三宮に将来の皇位継承への期待が掛けられていたが、同じ頃に三宮の本当の父は京極宮文仁親王であるという噂が流れ、この噂を危惧した東山天皇は霊元の反対を押し切って、1700(元禄13)年に三宮を円満院門跡にする方針を示して幕府の了承を得た。翌年、三宮の異母弟で五宮にあたる長宮(のちの中御門天皇)が誕生し、長宮が儲君に立てられた。
 1710(宝永6)年12月17日、東山天皇は9歳の長宮に譲位(中御門天皇)し、上皇として院政を開始したが疱瘡で急逝し、霊元上皇が再び院政を開始することとなる。しかし、太政大臣となっていた近衛基熙は6代将軍・徳川家宣の岳父であり、霊元も融和的にならざるを得なかった。1716(享保元)年には基熙の子の家熙の娘である尚子を中御門天皇の女御女御として入内させている。
 1712(正徳2)年10月、徳川家宣が急逝すると、幕府は幼君の権威を強化するために朝廷の権威にすがり、霊元は幕府の要請に応じ、後継者である鍋松のために「家継」の名を与えた。更に1714(正徳4)年4月の徳川家康百回忌には、自筆の経文を下賜している。9月には皇女八十宮吉子内親王と家継の婚約を実現させたが、家継死去のために実現はしなかった。こうして霊元が近衛家への厚遇と幕府との連携に転じたことで、近衛家や幕府の不満は和らいでいった(ただ、霊元が近衛家に対する憎悪をつづった自筆願文も残っている)。
 1713(正徳3)年8月には落飾して法皇となる。これ以降、天皇が法皇になった例は無く、最後の法皇となった。
 1717(享保2)年、幼年を理由に行われてこなかった中御門天皇の四方拝実施と共に院政は終了する。1732(享保17)年、波乱に満ちた生涯を閉じた。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 江戸時代:中期
関連年号 1732年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
霊元天皇 K606

 

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【K-KT057】霊元天皇陵

<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>

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