光格天皇後月輪陵

こうかくてんのう のちのつきのわのみささぎ(Nochinotsukinowa Mausoleum of Emperor Kokaku)

【K-KT064】探訪日:2015/10.3

【K-KT064】光格天皇陵 京都府京都市東山区今熊野泉山町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT064】光格天皇陵

   1840(天保11)年12月11日、宝算70で崩御した最後の太政天皇でもある第119代・光格天皇〔在位:1780~1817年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。
 閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)の第六王子で、母は鳥取藩倉吉出身の医師・岩室宗賢の娘の大江磐代。諱は師仁、のちに兼仁。 1779(安永8)年10月29日、後桃園天皇が崩御したときに子は欣子内親王のみであったため、急遽、傍系にあたる閑院宮家より養子として師仁親王を迎え、即位させた。なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で後桃園天皇崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている。
 1780(安永8)年11月25日に践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされていない。1782(天明2)年、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間は聖護院を仮御所とした。天明の大飢饉の際には事態を憂慮し、禁中並公家諸法度の定めを破り、幕府に民衆救済を申し入れた。天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
 朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合に贈られる太上天皇号を贈ろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。ただし、尊号の件以外は在位中に幕府との大きな対立は発生せず、朝幕関係はむしろ安定していたとされる。
 1794(寛政6)年、後桃園天皇の皇女・欣子内親王を中宮に冊立し、ふたりの間に温仁親王が生まれたが早世。これを受け、恵仁親王を1807(文化4)年7月18日に儲君に治定し、2年後にに皇太子とした。
 1817(文化14)年3月22日、恵仁親王に譲位(仁孝天皇)。翌々日に太上天皇となる。なお、光格天皇が最後の太上天皇である(退位した第125代天皇明仁は太上天皇ではなく上皇である)。
 1840(天保11)年11月18日、崩御。光格天皇は博学多才で、学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜み、父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。また、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や新嘗祭など、朝廷の儀式の復旧に努めた。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 江戸時代:中期
関連年号 1840
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
光格天皇 K609

 

【K-KT064】光格天皇陵
  

 

【K-KT064】光格天皇陵

<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>

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