陽光太上天皇(誠仁親王)月輪陵

ようこうだじょうてんのう(さねひとしんのう)つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Abdicated Emperor Yoko [Prince Sanehito])

【K-KT066】探訪日:2015/10.3

【K-KT066】陽光太上天皇陵 京都府京都市東山区泉涌寺山内町27

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT066】陽光太上天皇陵

   1586(天正14)年7月24日、正親町天皇の嫡男でありながら皇位につくことなく薨去したが、遺児の和仁親王が皇位についた(後陽成天皇)ことから、陽光太上天皇の尊号を追贈された誠仁親王の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は無方塔。
 元服に先立つ1567(永禄10)年11月には勧修寺晴子を上臈(実質的には妃)とし、彼女との間に13人の子を儲けていた。元服には織田信長の費用援助を受けている。信長とのかかわりが強く、石山合戦における信長と顕如の講和の仲介者として度々登場しており、顕如には石山本願寺からの退去を説得する書状を送っている。1579(天正7)年11月以降、誠仁親王は織田信長が献上した「二条新御所」と呼ばれた邸宅に居を構えた。この頃には、事実上の天皇(共同統治者)とみなされ、いつ即位してもおかしくない年齢であったが、朝廷が譲位にともなう一連の儀式を自力で挙行することは経済的に不可能であった。朝廷は、譲位の実現をひたすら信長に働きかけたが、信長は拒絶することはなかったものの、その死に至るまで消極的な態度に終始した。ただし、安土城の「御幸の間」は誠仁親王の即位を想定したものと推測されている。
 本能寺の変の際、信長の嫡男の信忠は軍事施設として優れていた二条新御所に立て籠もった。明智光秀の軍勢が御所を包囲するなか、誠仁親王は光秀に「自分も腹を切るべきか」と尋ねたという。自分が信長に擁立され、信長に依存した存在であり、信長が倒されればそれに殉じることもありうる立場であると誠仁は考えていたのである。幸い信忠に同行していた村井貞勝の交渉により、誠仁親王とその妻子,宿直の公家たちは御所を脱出し禁裏に逃げ込んだ。
 豊臣秀吉は、譲位して上皇となる正親町天皇のための「院御所」の建設に着手するなど、譲位に積極的に取り組む姿勢を見せたが、誠仁親王は譲位を待たずに、1586(天正14)年7月24日に薨去してしまった。あまりの突然の死に、父の正親町天皇も衝撃が大きく、ほどなく崩御した。
 誠仁の薨去後、遺児の和仁親王(後陽成天皇)が同年11月に祖父の猶子とされて皇位を譲られた。時期は不明であるが、後陽成は早世した父に「陽光院」と諡し、太上天皇の尊号を贈った。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1586年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
誠仁親王 K602

 

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