静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじゃ (Shizuoka Sengen Shrine)
【S-SZ012】探訪日:2025/3.24
静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102-1 <📲:054-245-1820>
【MAP】
〔駐車場所〕神社駐車場がある。
賤機山の南麓に鎮座する神部神社,浅間神社,大歳御祖神社の三社から成り、「静岡浅間神社」は総称である。三社は鎮座以来、独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきたが、戦後に神社本庁の別表神社となり、現在は一つの法人格となっている。
もともとは秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが発祥ともいわれている。静岡市内には、秦氏の氏寺・建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺(現・鉄舟寺)など当社の別当寺とされる寺院がある。
神部神社は駿河国開拓の祖神とされる大己貴命を祭神とし、崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座とされ、延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。
浅間神社は木之花咲耶姫命を祭神とし、901(延喜元)年に醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来、冨士新宮として崇敬されてきた。
大歳御祖神社は神大市比売命を指す大歳御祖命を祭神とし、応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、もともとは安倍川河畔の安倍の市の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。
当社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家,今川・武田・織田・豊臣・徳川など各氏の尊崇厚く、殊に徳川家康は、今川氏の人質時代の1555(弘治元)年に当社で元服式を行っている。そして、1582(天正10)年、戦国大名となっていた家康は、今川氏が築き、武田氏に占領されていた賤機山城を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに、家康が大御所として駿府在城時の1607(慶長12)年には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して廿日会祭の稚児舞を奉納した。
以来、家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになった。江戸時代初期の駿府藩主・徳川忠長が、賤機山で猿狩りを行い当社の神の使の猿を狩ったことで、兄・徳川家光の逆鱗に触れたことが知られている。
社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗なもので、計26棟が国の重要文化財に指定されている。この社殿群は1804(文化元)年より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので、特に、重層な大拝殿は高さ25mと木造神社建築としては出雲大社本殿(約24m)より高く、まさに日本一の威容を誇っている。
なお、境内社には、麓山神社(主神:大山祇命、日本武尊を配祀),八千戈神社(主神:大国主命),少彦名神社(主神:少彦名命),玉鉾神社(祭神:羽倉東麿・岡部真淵・本居宣長・平田篤胤の国学四大人)がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】<建造物> ・神部神社浅間神社(23棟) 本殿(附:棟札1枚)/中門(2棟)/透塀(3棟)/拝殿(附:棟札1枚,絵図2枚) 舞殿(附:棟札2枚,絵図2枚)/楼門(附:棟札1枚,絵図2枚)/神厩舎(附:棟札1枚) 総門(附:棟札1枚,絵図1枚)/回廊(2棟)(附:棟札1枚,絵図1枚)/宝蔵(附:棟札1枚) ・境内社 麓山神社本殿(附:棟札1枚,絵図2枚)/中門/透塀/拝殿(附:棟札3枚,絵図1枚) 八千戈神社本殿(附:棟札1枚,絵図3枚)/中門/透塀(2棟) 少彦名神社本殿(附:棟札1枚,絵図1枚) ・神部神社浅間神社の附指定 駿府浅間惣社御造営御勘定帳 2冊/棟札 3枚/寛文十年社中絵図 1枚 ・大歳御祖神社(3棟) 本殿(附:棟札2枚,絵図1枚)/中門/透塀 <美術工芸品> ・太刀 銘長船住人長光:秀吉から小牧長久手の戦の和睦の印として家康に贈られた |
関連時代 | 古墳時代:前期 | 平安時代:前期 | 戦国時代 | 江戸時代:後期 |
---|---|---|---|---|
関連年号 | 約2100年前・約1700年前 | 901年 | 1582年 | 1804年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
---|---|---|---|---|---|
秦氏 | HT01 | 徳川家康 | TG01 | 徳川忠長 | TG02 |
今回は平成令和の大改修の最中のため、大拝殿,本殿などは見ることはできなかった。大改修が完了するのは10数年先とのことで、いつ全貌を拝見できるかわからないが、いつかは訪れてみたいと思う。ギャラリーの大拝殿はWikipediaからの転載です。