宇陀松山城跡(秋山城跡)
うだまつやまじょうあと(あきやまじょうあと)(Uda-matsuyama [Akiyama] Castle Ruins)
【C-NR086】探訪日:2025/11.7
奈良県宇陀市大宇陀拾生
【MAP】
〔駐車場所〕
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築城年は定かではないが、14世紀半ば(南北朝時代)に北畠氏家臣として宇陀三将の一人である秋山氏が築いた秋山城を起源とする。1560(永禄3)年頃には秋山氏は松永氏に与していた。
1585(天正13)年、豊臣秀長が大和郡山に入部すると、秋山氏は退去させられ、豊臣政権期は伊藤掃部頭義之,加藤光泰,羽田長門守正親が城主となり、1592(文禄元)年からは8年間にわたり多賀出雲守秀種が城主となった。大和郡山城,高取城とともに豊臣政権下の大和国支配の要として大規模な改修が行われ、近世城郭へと変貌を遂げた。
関ヶ原の戦い後は、織田信雄の子・高長が入封し、さらに1614(慶長19)年には福島正則の弟・掃部頭高晴が入城し、松山城と改名した。しかし、1615(元和元)年の大坂夏の陣で、福島高晴が豊臣方へ内通していると疑われ改易されると、城郭は小堀遠州政一により破却された。
その後は織田氏による陣屋支配、幕府領支配が続き、城下町は「松山千軒」「宇陀千軒」とも称され、江戸期を通じ地域経済の中心として繁栄し、宇陀紙や吉野葛といった周辺地域の特産物を販売するとともに、活発な経済活動を示す町家が数多く建てられ、現在も意匠的に優れた町屋をはじめ土蔵や寺社などの建築群、石垣や水路などが一体となって歴史的風致をよく伝えている。
宇陀松山城は標高473m,比高120mの古城山に築かれ、東国と西国を結ぶ要衝の地に位置する。本丸は山頂にあり、東に天守郭、西に本丸を置く。天守郭の東端には天守台がある。本丸の周囲は東帯郭,西帯郭,北帯郭が設けられ、東側には大御殿郭、その南に二の丸を配している。西と南に虎口を開くが、西側から登る屈折した大手道には石段や石垣がみられ、特に途中の深い横堀は圧巻である。なお、「寅の尾」と呼ばれる本丸南の中腹にある郭は、秋山氏時代の居館跡と推定されている。
また、北西の春日神社には春日門跡、その西方には松山西口関門「黒門」が残されている。
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【史跡規模】
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【指 定】国指定史跡(2006年7月28日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
| 関連時代 | 南北朝時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 |
|---|---|---|---|---|
| 関連年号 | 1585年 | 1592年 | 1615年 |
| 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
|---|---|---|---|---|---|
| 秋山氏 | G*** | 豊臣秀長 | ZZ01 | 伊藤義之 | F*** |
| 加藤光泰 | F844 | 羽田正親 | **** | 多賀秀種 | **** |
| 織田高長 | OD06 | 福島高晴 | G128 |
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宇陀松山城縄張り図(『日本城郭大系 第10巻』に加筆)